覇権の標的 フェイk・ゲーム  幸福な会社 会社、売ります D列車でいこう インバウンド








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2006年10月31日

太極拳、恐るべし

 今週は忘れずに太極拳。これで3回目。
 動きはわかってきたようなそうでないような。(笑)
 90分のクラスなのだけれど、そのあいだほぼ膝を少し曲げ、腰をごくわずか折った姿勢でいるわけだ。
 ところがやがて腿や腰の筋肉を使っているという意識がなくなる。
 筋肉を使っていないのに、自分の頭が地上1.5mのところに存在している。つまり、身体が宙に浮いているような感じなのだ。
 不思議な体験。
 心とか意識とかいうものは、肉体と別の存在ではなく、肉体とともに存在しているらしい。
 90分の終わりに、全員で整理体操のようなことをするのだが、50人ほどの人が一斉に同じ動きをしているのに、空気が動かない。空気を切り裂くのではなく腕の動く先の空気を腕に取り込んで後ろに吐き出しているというか、空気の分子が身体をすり抜けているような感じ。
 別にみんな達人ではなく、そこいらのふつうのじいちゃんばあちゃんたちなんですよ。
 スピリチュアルな説明は全然なくて、ただただ動きをまねているだけなのに、心のありようが変わっている。太極拳、恐るべし。

 中華街の龍仙(馬さんの店)の支店が三ツ沢上町の駅のすぐそばにあるので、終了後は、そこでランチ。600円なのに、めちゃうま。

 午後4時、帰宅。
 二時間ほどして身体の疲れが取れてみると心身快調。

2006年10月30日

ひきこもり

 ただ、執筆。
 集中力、いまいち。

「明日は太極拳ですよ」
 先週、行きそびれたという日記を書いたら、ひとり暮らしの母が、メールをよこした。
 親ってありがたいなあ。(と、ここに書いて礼を言っておく)

2006年10月29日

またしてもヨットもお休み

 残り50枚と思ってからどんどん長くなって、ゴールが逃げる。
 編集者が催促してこないのが不気味。
 人生の優先度相当高いにもかかわらず、ヨットも休み。

 夕方、みなとみらいへジョギング。日曜日の人出。
 足が弱っているよなあ。ゆっくり身体作りしたいなあ。

2006年10月28日

書く、書く、ナップスター

 身体がどんより血流が悪い感じなので、やはり午後4時ごろから、散歩。
 Blenz Coffee へ行ったら混んでいるので、結局、また Tully's へ。
 途中、100円マック外で立ち食い。

 かつて違法コピー流通の担い手だったナップスターがちゃんとした音楽配信会社になって、日本でも定額制の配信サイトをオープン。で、7日間の無料お試しに入ってみた。仕事のBGMにいいかなと。
 夜0時から1時あたりはストリームでは切れ切れで実用にならず。
 しかたなく、ダウンロード(スピード遅いけど)。
 洋楽が充実していて、探していると楽しい。新しい発見もある。
 毎月1280円で150万曲聴き放題は有線放送だと思えばいいかもしれません。
 ダウンロードだと196Kbpsなので、かなり音質もいい。
 いくらでもダウンロードできるけど、月額契約をやめるとライセンスが切れてすべて聴けなくなるという方式は合理的かも。
 ラジオでもテレビでも大人の音楽番組がないので、新しいアーチストが出ていてもそれを知る機会がなくなっているけれど、いわばアルバムごと全曲視聴できるシステムなので、CD選びにもいいかも。
 できれば、iPod と統合したいんだけどなあ。

 そんなわけで、ガーシュインの "Summertime" を20人くらいのアーチストで聞き比べたり、映画『The有頂天ホテル』の中で YOU が唄った "If My Friend Could See Me" を6人くらいのアーチスト聞き比べをしたり、しながら、明け方まで執筆。
 420枚を越えているけど、あと50枚で終わるかなあ。もう少し枚数が必要か。

2006年10月27日

執筆、執筆、執筆。

 て、四六時中書いているわけではない。
 書いている時間は限られているけど、その他のすべての時間が書く時間を産み出すため、書く時間の効率を上げるため、書く時間に書ける自分をつくるため。

2006年10月26日

履修科目不足問題 がんばれ高校生!

 必須科目である世界史(平成6年からそうなったそうです)などの科目を受験に集中するために履修させていなかった高校がたくさんあることがわかってきて、3年生の卒業資格がなくなるかもしれないと、騒ぎがどんどん大きくなっています。
 災害の犠牲者の如く、新しい報道があるたびにその数が増えているので、実数が把握できないけれど。

 ルールがある以上、世界史をやった上で大学に入る、というのが当たり前なのに、なんで楽しようとするんでしょうね。
 教育の場で楽してどうするんだろう。
 苦労していろいろ学ぶ場で楽したら自分が損するわけです。
 そんなに目先の楽をしたいなら大学行かなければもっと楽です。
 でも、大学自体が目的ではなく、将来を豊かにするために大学へ行くのだから、豊かになれない勉強の仕方で大学へ行くのはもったいない。

 世界史を勉強しなくても大学に入ればこっちのもの、というほど人生も社会も甘くありません。世界史を履修して大学に入った人と、そうでない人は、すでに入った時点で差があるわけだし、放っておけば、その差は時間とともにもっと開いていきます。

 長期的みて世界史を勉強しておいた方が明らかに得です。(他の科目でもそうですが)

 知識という「タネ」があると外部の刺激から「興味」が生まれます。興味をもつと自分からどんどん情報を吸収しようとするので、結果として、少しの知識があれば、なにかのきっかけで百倍にも千倍にもなる。増殖するんですね。
 ところがタネがないとピンと来ないから、話を聞いてもテレビを見ても「つまんねえ」でおしまい。
 高校程度の知識というのはそういうタネの役割をするわけで、もともと世界史でならった年号が役に立つわけじゃない。でも、ちゃんとタネとして役に立つ。でも、「つまんねえ」で終わってしまう人は、そう口にしたその瞬間に、受験に関係ない高校の勉強が「役に立つんだということに気づくチャンス」すら失ってしまう。
 タネがないところに雨が降っても芽は出ない。雨はいつ降るかわからないから、チャンスを逃さないためにはタネを蒔いておく必要がある。高校で学習する知識というのはそういうものです。
 高校の知識が長い人生の間の知識や経験の格差を産むことになります。
(だって、そのために高校へ行くのであって、大学へ行くためだけに高校があるわけじゃない)

 そもそもどんないい大学を出たところで、それまでに学んだことよりもその後に学ぶことの方が何十倍何百倍も多いわけです。だから大学に入るかどうか、あるいは、「どの大学」に入るかが問題なのではなくて、大学を出てから知識を自分で増殖させる能力があるかどうかが将来を決めるといってもいい。
 同じ大学を出ても、知識を増やす能力が低い人は実りのある人生を送るのに圧倒的に不利になる。ランクが低いと思われている大学の卒業生でも知識増殖能力が身についていれば豊かな人生を送る上でとても有利になります。
 みすみす不利な選択をするのが「世界史を履修しないで受験科目だけを勉強する」ということなのに、それを学校がルールを無視してまでやってしまうなんて。

 高校で学ばなくてもあとで必要になればいつでも自分で学ぶことはできます。必要だと自分で気づく限りは。
 気づくことができれば大丈夫。問題はありません。高校で学んだところで、そのなかの知識自体はそれだけで役に立つわけではないから、結局、あとで自分で学ぶ必要があることは同じです。
 ところが高校で学ぶような基礎的な知識がないために「自分に必要だ」ということすら気づかない危険が高くなってしまう。その結果、ある人は必要なことを学び、ある人は必要なのに必要だと気づくことなく学ばない、ということになる。
 こうして格差は拡がっていきます。
 学校が受験科目以外を学習させないということは、そういう潜在的負け組国民を増やしていることになる。生徒たちがとてもかわいそうです。
 
 先日まもなく出るという東大に関するある本の著者に会いました。
 彼が東大生について調査をした結果、東大生は、中学の時も高校の時も本をたくさん読んでいるというのです。
 本というのは受験参考書のことではなく、小説や新書やノンフィクションやエッセイや解説書や、いわゆる本屋にならんでいる普通の本のことです。当然、それらの本を読んでも入試問題が解けるようになるわけではありません。

 世間で「受験の勝者」のように思われている東大生ですが、彼らは受験に役立たない(と思われている)ことをたくさんしているということがデータとしてわかったというわけです。
 一部の会社や官僚組織でもないかぎり、東大を出ただけで出世するなんてことは事実に反した単なる都市伝説であって、現実の社会はそんなに甘くはありません。むしろいい大学(と世間で思われている大学)を出た人が沢山いる一流企業ほど長い目でみて、ちゃんと実力主義になっています。

 実力というのは結局のところ、「自分で知識や経験を増やすことのできる力」や「人が気づかないことに気づく力」「だれもやったことのないことに挑戦できる力」のことで、会社員であろうと、ラーメン店のオーナーであろうと、教えられたことだけしかできない人、というのは社会で生き延びていくのがむずかしい。

 少なくとも教えてもらった知識を自分で増やせる人でなくてはならない。
 知識を増やすにはタネが必要です。そのタネはあとで自分で勉強するより、学校で習う方がずっと楽だし、知っていることが多ければ、人生の楽しみも多くなります。たとえ授業中寝ていても耳に必ず残っている。そのことに大きな価値があるわけです。居眠りする授業すらないなんて、それはあまりにひどいことです。

 受験科目ではなくても、勉強しておかないと絶対に損です。
 高校世界史の知識があるだけで、テレビだって映画だってドラクエだって海外旅行だって、何倍も面白くなります。ニュース番組がバラエティ以上に面白く感じられたりします。
 生活の中で我慢しながら人の話を聞く時間が減って、わくわくする時間が増えます。受験に関係ないけど高校のカリキュラムに入っているような知識は、一生のあいだ、人生を百倍楽しむための魔法の薬みたいなものです。

 3月31日までに履修すればいいので、受験が終わってからでも、50分x70回(6時間の時間割で2週間)の時間は取れます
 大丈夫。
 騒ぎに巻き込まれてしまった高校生のみんな、がんばって勉強してくれ!

ネット上のいろいろな意見
http://blog.livedoor.jp/miyayamateki/archives/50620897.html
http://plaza.rakuten.co.jp/lions/diary/200610250001/
http://blogs.yahoo.co.jp/fukukacho/22221734.html

2006年10月25日

太極拳。忘れる

 小説のこと以外、まったく頭になかったので火曜日が太極拳の日だったことをまったく忘れていた。
(それ以前に自分が生きているのが何曜日なのかがあまりわかっていなかったりするんだけど)
 少し前には体調が崩れてきたなあ、もうじき太極拳だから行けばよくなるだろう、それまでの辛抱だ、なんて思っていたのに、いざ、その日になったらスルーしてしまったというわけだ。
「しまった、1時から太極拳なのにもう3時!」
 なあんて一瞬あわてたりしたのだが、2時間過ぎていたのではなく26時間過ぎていたというわけ。
 そんなわけで身体はなんとなく重い。

 前日から目が痛いので、遠くを見るために散歩に出る。
 まず、ジャックモールのマクドナルドでランチ。
  (マックチキン100円+ハンバーガー80円+コーラS100円=280円)
 いつもの Blenz Coffee へ行くとレジに行列ができていたので、それならば2ブロックほどのところにある Tully's へ。
 机が狭いけど、ここはここでとても静か。
 近所のタワーマンションの住人なのか、定年後とみられる男性が3人、それぞれひとりでコーヒーを飲みに来ている。
 午後8時前にスーパーに寄って半額になった惣菜などを買って帰宅。
 夜半からつづき、まずまずの進みだが、朝8時まで起きていたので、まだ生活時間がずれ始めている。

2006年10月24日

目が痛い

 前日ペースがよかったせいか、朝からずっと目が痛い。
 そんなこんなでペース上がらず。二日間の平均を取れば十分なパフォーマンスなので、明日がんばればいいな、と。

 しかし、急に寒いな。
 そろそろ短パンにTシャツでは不適切な服装という感じ。靴下ぐらいは履こうかな。
(短パンも真夏だと暑いから今どきならちょうどいい短パンというのもあるし、真夏はタンクトップだけどいまは半袖Tシャツとか、一応、衣替えしてるんですけど)
 ちなみに、顔の高さで24.6度、床から15センチの高さで22.5度でした。外気温は20度までいってないはず。

2006年10月23日

どんと進む

 立ち止まりの効果が出たのか、どんと進む。
 進むと楽しい。(たいていは苦しい(笑))

 ただし、調子がよかったので午前4時までやってしまった。

2006年10月22日

いったん立ち止まって

 数日前、370枚ほどのところまで書き上げた。
 そこで、ここのところ、3日ほどかけて、改めて頭からあらすじを抽出。まだ書いていないところを含めて、85枚ほどの「あらすじ」をいったん完成させる。

 目的は、
  1)つじつまが会わないところを洗い出しておくこと、
  2)残りの部分を書くにあたって勢いをつけるために展開をおさらいしておく、
  3)本格的な改稿の前に分量バランスやテンポなどを確認しておく、   など。

 ここから約100枚ほど書いて第ゼロ稿として、そこから改稿に入るという手順。

 これを含めて、もう1タイトル出版が決まっていながら未完成の書き下ろしがあるので、なんとなくどんよりとしたプレッシャーだ。少し前まで、だれにも頼まれもしない原稿を書いていたのだからして、こういうのにまだ心が慣れていないのだ。ありがたいことだけど。
 小説家の場合、忙しくても猫の手は借りられないので、自分でやるしかない。

化粧をしない女

 いまの日本で、だれにでも裸を見せることは推奨されていない。適宜、肌を隠すことが求められている。電車の中で化粧をする人に新聞投書欄で非難が寄せられるのも、たぶん「見せてはいけないもの」を露出させているという考え方が背景にあるからだろう。
 互いの裸を見ることは「特権的関係」にあるものだけが許される。誰にでも裸を見せるのは「おかしなひと」のやることだ、とみなされている。
 化粧をしない素顔は裸と同じようでもあり、違うようでもある。
 人の知らない「あなただけに見せる顔」や「自分だけに見せる顔」には「関係」が存在する。だれにでも見せているわけではない、ということが関係を産み出すわけだ。
 関係を確認する喜び、とりわけ男女にはそんなのがあるように思う。恋愛というのは関係を確認し続けることのようでもある。
 素顔はそのぎりぎりの境目だ。
 素顔の奥にも「あなたにしか見せない素顔」ももちろんある。けれど、だれにでも素顔を見せている、という言葉がちょっと面白くない。
 化粧をしないで素顔ですごす女性を恋人にもつと、ヌードダンサーを恋人にもったような複雑感情が生まれるように思う。
 少なくとも「裸を見る」という特権的行為が一般にも公開されていると、関係を確かめるために「裸以上」が必要になる。
 なるほど。そうか。恋愛というのは互いだけが知っている秘密の共有なのだな。
 どんなに境目の位置をずらしても、つねに「その先」はあるから、実はどっちでもいいような気もするんだけどね。逆にいえば、人はその先その先と追い求めることに疲れることもあり、たとえば、さっっさと裸になって開き直ったところから安らぎが産まれるということもある。
 さあ、これ以上先はないわよ、つきつめないで、いいかげんくつろぎなさい。
 裸や素肌に、そんなメッセージがあるのかもしれない。人間っておもしろい。

 とまあ、最近、化粧について続けていくつかネット上の書き込みを読んで感じたことを書いてみました。

化粧する女(2)

 化粧をする女と化粧をしない女のどちらがいいか、という永遠のテーマ(笑)がある。
 基本的に僕は努力と創造をリスペクトする。だから化粧をする人が好きだ。
 いうまでもなく二十一世紀、洋服は寒さを凌ぐ手段であるだけでなく、自分を表現する手段だ。同じように化粧は欠点を隠すものではなく、自分を表現する手段だと思う。化粧は新しい創造だと思う。
 あらゆる機会に自分を表現したい。そのスタンスがいいのだ。
 今日は素顔の自分を表現したい、と思えば、素顔に見える化粧をすることで、ほんとうの素顔よりも素顔らしい素顔ができるはず。
 化粧とはアートだから。

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 見かけに関して素顔のほうがきれいに見えるとしたら、それは化粧の技術が下手なだけ。
 上手な化粧なら、ちゃんと「きれいなスッピン」に見せることもできます。
 見かけではなく、肌の健康上の問題や、人間の心の問題はまた別だけど。
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化粧する女(1)

 電車の中で化粧をする女を非難する人がいる。たしなみに欠けるということなのだろう。
 ちゃんと家で化粧して出てくる人生の方がゆとりがあることはたしかだ。
 しかし、人生、のっぴきならない。
 睡眠時間三時間なら、五分でも余計に眠る方が化粧をするよりも妥当な時間配分だろう。
 では、五分余計に眠った結果、化粧をしないで家を出てきたとしよう。
 彼女は、身だしなみとして、化粧をするべきだと思っている。会社に着いたらすぐ仕事だ。だったら、電車の中で化粧をするか、一日中化粧をしないか、どちらかしかない。
 自分のあるべき姿にできるだけ近づこうとして、人は最善の努力をするべきだ。家で化粧ができなかったら、電車の中でするのは次善の策である。
 どこがいけないっていうんだ。
 人の努力を否定して足を引っ張ることはないじゃないか。

 自分の倫理観や価値観に合致しない人がいるからといって、その人の生き方をとやかくいうもんじゃない。(ていう意見も僕の価値観でとやかくいっているんだけどさ)

ブログで探しても、いろいろな意見がありますね。おもしろいです。

http://yaplog.jp/orihasam/archive/49
http://blog.livedoor.jp/parln0628/archives/50587250.html
http://sakuteki.exblog.jp/4014910/
http://blogs.yahoo.co.jp/gngrn601/21498485.html
http://blog.goo.ne.jp/nobbbbbie/e/8ce7d23d015f85066c1855b990b23048
http://eenie-meenie-minie.moe-nifty.com/dochira/2006/03/post_67ac.html

2006年10月21日

世間は土曜日

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 いつものように公園へ出たら人が多い。そうか土曜日なんだ。
 みなとみらいの "Blenz Coffee"は、逆に少し空いている。
 平日は、僕のようにパソコンを持ってきている人とか、ノートを開いて勉強している人が多くて、最近けっこう流行っているのだ。
 疲れたところで、大戸屋で「ロースとんかつ定食」(660円+税)。ここは安くてきれいで美味しい。いい店だなあ。

 夕方家にいると、珍しく電車で仕事に出ていた妻が駅に戻ってきたので車でピックアップ。
 そのまま横浜Fマリノスの練習場「マリノスタウン」にあるレストラン IVI へ。
 ながいあいだ夫婦ともにめちゃめちゃいそがしくて、家でも食事というより栄養だけは考えてある「エサ」を摂っている感じだったし、今日に至ってはそれをつくる気力すら惜しいので、手を抜いてお金で解決するためにやってきたのだ。
 3500円のコースがけっこうよくて大正解。今日は食事に恵まれている。

 実は、夏の花火の時、オープン間もないマリノスタウンのサッカー場の夜間照明が眩しくてマンションからの花火見物に差し障りがあるので、「消していただけませんでしょうか」と、このレストランに電話をかけて丁重にお願いしたことがあった。そしたらすぐに消してくれたのだ。
 食事後に店長が席にやってきたので、その話をしたら、電話に出たのがまさにその店長でよく覚えていたので、改めて花火の日のお礼を言った。
 向こうは向こうで、近所に住んでいる人からレストランがどのように見えているかというのを知りたがっていて、経営の話とか、見せ方とか、そんな話をしたりして。

 帰宅後は、ふたりとも仕事。

 写真は、昼間、散歩の時に撮影した「マリノスタウン」。

田園交響曲 ブルーノ・ワルター指揮

 子どもの頃、家にコロンビアの電蓄があって、SPレコードがいくつかあった。

    ベートーベン 交響曲第6番「田園」  ブルーノ・ワルター ウィーンフィル
    ベートーベン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 演奏家は記憶にない

 これらは5枚組でそれぞれ一曲だった。 一曲聴き終わるのに何度もかけ替えるの。
 その他に、モーツアルトの40番、41番なんかがあった。
 レコードが回りながらアームが揺れるのが面白くて、盤面を見ながらよく聞いていた。

 あるとき、この田園を聞きたくなって、探したらCDで発売されていた。なんと1936年の録音だ。
 CDなのにスクラッチノイズがあるし、もちろんモノラルだし音は悪い。

 仕事のBGMにワルターの田園を久しぶりにかけてみた。
 最初「音が悪いなあ」とまず思うのだけれど、ずっと聞いているとそんなことは関係なくなっていつのまにか引き込まれているのだ。
 ときどき不思議な懐かしさを感じる。どの田園ともちがう、幼少の記憶の奥にある田園だとしみじみ思う。意識しないでものすごく細部が魂の中に刻まれているのだと思う。

 やがて、小学校4年で大阪の豊中に引っ越して、そこで初めてLPレコードのクラシックを買ってもらう。
 カラヤン・ベルリンフィルの「運命・未完成」。
 これも同じモノラルの電蓄で散々聴いた。なにしろ、他にほとんどレコードがなかったから、毎日家に帰ると裏表をそれぞれ二回ぐらい聴いていた時期がある。
 たぶん、あらゆるレコードやCDのなかで、いちばん繰り返し聞いた曲だと思う。その前もあとも、これほど聴いた曲はない。
 まだ家にあるけれど、擦り切れていて、音がシャアシャアいうし、針の重いモノラル電蓄で何度も聞いたせいで、ステレオ録音のはずなのに、音はほとんどモノラルになってしまっている。

2006年10月20日

20日の金曜日

 ほとんど小説かいてばかりの日常なので、曜日とか日にちとかを意識しないのですが、本日は20日の金曜日。
 ということは先週は13日の金曜日だったんですね。
 なにもなかったな。キリスト教徒じゃないし。

 そういえば、結婚式は仏滅でした。仏教徒じゃないし、式自体はキリスト教式だったし。
 無宗教は便利だな。

2006年10月19日

本当の贅沢 (木村尚三郎・死去)

 西洋史研究・比較文明論で有名な木村尚三郎先生が亡くなった。

(以下、敬称略)

 大学の教養科目で西洋史を習った。
 大教室だから別に交流はなかったのだけれど、なんとなく魅力のある人だった。なんの研究をしているのかときいたら、「ベッドの歴史だ」という答だったので、へえ、と思っていた。
 こっちが大人にならないと偉い人の偉さというのがわからない。
 単位を取るだけの理科の学生の教養科目に文科系の偉い先生がたくさんいたというのは、ずっと後になって知ったのだが、19かそこらのころにはそんなことはつゆ知らず。いま思うととても贅沢な教養科目がたくさんあった。
 放送大学を見ると懐かしい顔がたくさんいたりして、ちょっとうれしくなったり。

 無駄に上質のものを消費する、実用の部分よりも可能性が圧倒的に大きい、それを贅沢というとすれば、ほんとうに贅沢な学生生活だった。
 知らぬうちにこういう贅沢ができたことが東大のほんとうの素晴らしさだった。いまになってそう思う。

 そういえば、芳賀徹には予備校で英語、大学でフランス語を習った。
 フランス語は蓮実重彦にも習った。
 僕がフランス語ができないのは先生のせいではない。(笑)

 こういう贅沢を同窓の友人曰く「体操の塚原にラジオ体操を習うようなものだ」と。
 言い得て妙。

 彼は英語を小田島雄志に習っている。
 そういや、夢の遊眠社の前身の「東大劇研」の顧問は渡辺守章だった。
 

2006年10月18日

3作目の仕込み

 編集者が横浜まで来てくれて、午後2時からおそらく3作目になる書き下ろしのためのミーティング。
 相互に状況確認したあと、基本的にいまとりかかっている書き下ろしが終わったら着手する方向で。

 電池が保たなくなってきた携帯 W21S。
 1月に24ヶ月になるのでそこでその時点の一番安いのに機種変更しようと思っていたら、ひょんなことから4ヶ月使用のW41Sがタダで手に入ったので、2100円手数料を払って機種変更。
(今年の1月発売なのにすでに最新型からはほど遠いけど、僕の持ち物よりは3世代もあとのもの)

 PCサイトビュアが欲しいと思っていたので、ありがたい。
 FMラジオが意外につかえる。
 Felicaがあるので、edy に申し込んでみた。Suica もつかえるけど、やがて年会費1000円とるというのでこれは躊躇。
 音楽も聴けるので、au Music Port というのをノートPCに入れたのだが、iTunes に比べてめちゃめちゃ使いにくいし、エンコードも遅いし、mp3 は聴けないしで、なんだかなあ、なんだけど、つかえるとついむりやり使ってみようというオタク精神が働いてしまって256MBの メモリスティックDuo を2800円も出して買ってしまった。
 都合、2100円の機種変更が5000円になってしまった。ばっかみたい。(笑)

 みなとみらいの Blenz Coffee まで歩いて、執筆とか携帯のセットアップとか。
 電池が切れたのでスーパーに立ち寄って帰宅。
 夕食後は、また執筆。

2006年10月17日

太極拳2回目

 三ツ沢上町の体育館で太極拳の二回目。
 初回よりもだいぶ慣れたけれど、それでも全身が使われていることによる肉体的疲労はかなり。
 反面、心の疲れはとれる。とはいえ、心がリラックスすると小説は書けなくなる。
 必死で少しでも書く。
 まだ10日かそこらはかかりそうなので、この時点でいっぱいいっぱいにするとつぶれてしまう。

 夕方、小型の電気肩たたき機みたいなやつで足の筋肉を中心にくまなくマッサージ。
 前回もそうだが、これがすごく効果的で、まったく筋肉痛が残らない。

2006年10月16日

近所のカフェ

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午前6時半起床。
午後、ごくごく近所のカフェへ。
経営者があんまり気に入らなかったので避けていたんだけど、初めて来てみました。
意外にいい。椅子とテーブルが執筆向き。 かかっている曲も好みに合ってる。
コーヒー525円がちと高い。おかわりできないし。

近すぎて散歩にならないけど、雨の降った日ならいいかな。
まずは新発見でした。

翌午前3時、就寝。前日の後れは取り戻したが、本日分、若干積み残し。

2006年10月15日

ヨットなし

 執筆追い込み中のため、ヨットレースもお休み。
 世間の人は原稿の追い込みというと、2、3日だと思う人が多いようなのですが、長編小説なので約束の期日がヤバイ、というのが逆算して一ヶ月前にはわかっていたりして、すでにそこから追い込みだったりします。
 現時点で、まだあと原稿用紙150枚ほど書かなくては。

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 午後、気分転換に自転車でポタリング。
 午後11時半、あまり進んでいないうちに眠くなったので30分だけ休むつもりでベッドに入ったら、あちゃ、朝まで眠ってしまったぜぃ。

2006年10月14日

気力低調

 午前6時半、起床。
 パソコンの前にはいるのだが、午後まで原稿に手が着かず。
 夕方になってもテンションが上がらない低調な一日。
 あきらめて早寝するか、少しでもガンバルか、判断がむずかしいところだが、翌午前2時までそれなりにやる。

2006年10月13日

自転車

 午前4時半起床。多少ずれるけどひきつづき朝型。
 午後、一段落のため、自転車で山下公園まで往復。ひさびさの自転車だ。
 帰ってつづき。ああ、地味な暮らし。(笑)
 午後11時過ぎ、寝るつもりだったが、結局、就寝は翌1時半。
 

2006年10月12日

ヤンゴン時間で引きこもる

 午前9時(ヤンゴン時間で午前6時半)に起床。
 心身共に調子がよくて家から一歩も出ずに執筆。
 早々に本日のノルマ達成。
 午後10時すぎに就寝。

2006年10月11日

丸の内

 午前6時半起床。おお、まっとうな起床時間だ。
 午前中にエッセイを書き、夕方までは小説。けっこうはかどった。
 電車の中で Zaurus をつかって小説の推敲をしながら東京駅へ向かう。
 午後7時、丸の内のレストランで出版エージェントの5周年パーティ。
 僕が契約しているわけではないが、友人の作家・山田あかねさんに声をかけてもらったので。パーティはごった返していたが、新たにまた出版社の人と名刺交換できたので一応よし。
 そこそこの時間になったので、有楽町のガード下の焼鳥屋へ移動して、焼酎を飲みながら閉店まで山田さんと、主として小説家という生き方について(笑)話をする。

 実は山田さんとはほとんどオンラインでのおつきあいで、ゆっくり話をするのははじめてだったりする。
 メディアが発達すると、人間関係も「タイムシフト」「地理的距離不問」になっている。

2006年10月10日

太極拳で開放する心と体

 しばらくリオデジャネイロ時間で生活していたところ、日曜にヨットに乗るためにあわててもどそうと、まずイスタンブール時間にしたところまではよかったのだけれど、次の日には調整しすぎて日付変更線を越えてしまってホノルル時間になり、少しもどしてフィジー時間になって、やっと本日、日本時間午前6時半に起きることができました。

 午前中、執筆、昼から「太極拳教室」の初日です。

 で、行ってきました太極拳。
 体育館に50名ほど、先生は4人。
 集中して動いていると頭が空っぽに。一方、腿の筋肉は90分でパンパン。

 帰宅すると異常に疲れている。
 深い呼吸で酸素を取り入れて身体が中から燃えている感じで熱い。
 身体が要求していた休息を心で押さえつけていたのが開放されて一気に疲れが出てきた感じ。
 心身をすっきりさせて執筆の能率を上げるという目論見はみごとに反対になってしまったけれど、身体が求める休息に気づかされてよかったと考えることにして、午前0時を迎える前に就寝。


 

火薬の匂い

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 北朝鮮は、麻薬やニセドルを国家として売っている国。いま、核兵器をテロリストに売って金に換えようとしている。 北朝鮮が核を持つと言うことは核拡散に歯止めがかからなくなり、だれでもお金で核兵器が買える国際社会になることと同じ。
 そうなったら北朝鮮が核を使うよりももっと危険なことが想定されるので、北朝鮮に核が留まっているうちになんとしても止めておかないと。

 家の近くのアメリカ軍事海上輸送部隊・極東司令部。アメリカは完全に臨戦態勢に入っていることがわかる。見える限りイラク開戦前と同じ体制。
 今回も戦争になる可能性がかなりありそうです。

2006年10月09日

フィジー時間

 前日、早く寝たので、フィジー時間午前6時に起床。(だいぶ日本に近づいてきた)
 北朝鮮、核実験のニュースを聞きつつ、午後、3時間ほど散歩。
 あとは執筆。

2006年10月08日

ヨット日和

 ホノルル時間午前6時(笑)に起きて、原稿書き。
 日本時間午前9時半までに二食食べる。(笑)
 日本時間午前10時、ヨットハーバーへ。
 11時前に出航。空気が澄んでいて空は真っ青。富士山見えるし、千葉側も見えすぎるくらい見える。
 風は次第に弱くなり、エンジンをかけて、八景島マリーナへ入港。
 楽しくのんびりしたランチ。
 帰りは、やがて、かなり風が吹き上がってきて、空は真っ青の晴天なのに、舳先からの波しぶきで濡れるので、合羽を着て走らせる。

 夕食後、午後9時には、もう起きていられずにベッドへ。

2006年10月07日

ホノルル時間

 完全に昼夜が逆転して暮らしていたのですが、日曜日には2週間ぶりにヨットに乗りたいということで、時差調整のため、本日はイスタンブール時間で目覚めました。

 で、陽に当たる目的もあって、近所の公園やみなとみらいまで散歩。
 いつものカフェで原稿書き……。
 などと暮らしていて、夕食を食べたら夜9時には眠くて起きていられなくなり、時差調整は進みすぎで、翌8日はホノルル時間での朝6時に起きるハメに。
 くそ、日付変更線、またいじゃったよ。

ウィルス注意

以下の文字列に思い当たりませんか。
毎日これらのアドレスを騙ったウィルス(かなり古いタイプの)が届きます。
以下の文字列に思い当たるフシのあるかたはウィルスチェックを忘れずに。

シバタキョウスケ (JETRO)
indow (メーリングリスト)
ヒロノユーゾー
カツベモトユキ
イザワ
オタギリナオト
イズミ (滋賀県立大学)
マルヤマツネ
シサユキ
アオキ (トウカイブッサン)
オーヤマM
ヤスF (北大)
リコーUSA
クワヤマ(宝石)
キミヒコ
チバアミコ (シンパティコ・カナダ)
シオミケン
ケーブルネット
ツツイカンポ
ミドリ (アクセラレート)
terra.com (ブラジル)
モリカズミ
タカノN

2006年10月06日

あらためてひきこもり

 激しい風雨も、家の中にいるとセイシェルのビーチに打ち寄せる波のように聞こえる。
(そんなわきゃないが)
 まあ、なにはともあれ、物語の終わりに向かってコツコツと書き続けるばかりなり。

     秋来ぬと、人語り、なお、半ズボン。

 季節感のない様を俳句で詠むときにはどのような技法を使ったらよいのだろう。
 俳句教室にでも通ったら教えてもらえるだろうか。

 日曜日にヨットに乗るには、いつまでもリオデジャネイロ時間ではまずいので、とりあえずイスタンブール時間ぐらいまでずらしておかないと。

2006年10月05日

疲労回復:健康にいいゴールデン街

 水曜日に町へ出て、人にあって、芝居を見て、終電過ぎまで飲んだら、心も体もやたら元気回復。
 目が楽なのは当たり前だけど、身体全体の調子がいい。
 つまり家にこもって小説を書くのは、終電過ぎまで酒を飲むのよりも身体に悪いってわけね。

 が、しかし、重要なのは原稿が進むことであって、体調をよくすることではない。
 あたしは小説家なので、体調など悪くても原稿が進んでくれればよいのだ。

 体調が回復すれば能率はよくなるが、外出したり飲んでいる時間は、書いていないわけで、効率でなく、絶対量でいうとビミョーなんだな。

 というわけで、5日はまたひきこもり。

「With You」

10月4日(初日)  新宿・シアター・サンモール
原作・総合プロデュース 神田昌典
脚本・演出 永井寛孝

 僕自身、劇団「夢の遊眠社」の創立メンバーであり、芝居を創ってきた経験があるので、演劇一般について作り手側の視点で見てしまうことを、まずはじめにお断りしておきます。
(以下、文中、敬称を略す)

 この演劇については、ひとことでいうと「楽しかったが居心地が悪かった」というのが率直なところだ。
 この芝居を観て、僕はたくさん笑ったし、楽しかった。だが、反面、観ている間に何度も落ち着かない気持ちになった。

 本作は、ビジネスに対する論理的な主張を演劇という手段によって提示する、演劇という手段によってある種の考え方を広める、という形に留まっているように思う。
 芝居は原作・神田昌典の考えの下にあり、演劇が観客に「教える」立場にあるという点で、本当の意味で演劇とビジネス(理論)の融合に成功しているとはいえない。
 演出・脚本の永井寛孝は原作を咀嚼できていない、もしくは原理的に咀嚼し得ないようだ。たくさんの作劇上の創意工夫に苦労の跡が見て取れるけれど、いまだ、作り手とメッセージには大きな距離があるのだ。

(ただ、この演劇が新しいチャレンジであることを勘案すれば、それを直ちに責めるべきだとは思わない)

 ビジネスをビビッドに咀嚼できないまま、演出はおそらくは原作に沿ってビジネスの世界の在るべき姿を語ることにためらいがあり、迷いがある。ビジネス側の主張によって生じる「照れ」を随所で笑いを取ることで逃げている。あるいは演劇と融合し得ない「論理的な結論」を一方的に提示するという(もしかしたら根源的な)難題を解決し切れていない。

 主人公・青島タクを含め、登場するビジネスマンたちを、脚本も演出も、終始、一度も肯定しない。だから登場したその瞬間から、観客は彼らがやがて否定されるであろうと感じる。

 一般に、物語のカタルシスは、まず観客が主要な登場人物のいずれかにシンパシーを抱き、自分が心の中で応援するその人物が、危機に遭遇することでハラハラドキドキし、努力の末に危機を克服することによって得られる。
 ところがこの物語に登場するビジネスマンたちはすべて最初から、どこかいけ好かない人物であり、観客は終始冷ややかに「やがて失敗する」ことを予測、または、期待している。
 主人公・青島タクにもその他の主要人物にも、観客はシンパシーをもつことができない。だから、観客は彼らに危機が訪れても不幸になっても「やっぱりね」とか「ざまあみろ」とか思うだけなのである。

 その主な理由はおそらく過度の記号化と論理の押しつけだ。
 演劇という表現は魂を削って肉体によって行われる観客への新しい「事件の提示」であるはずだ。

 観客は舞台上の事件に遭遇し、その体験からそれぞれの反応をする。提示された多様性によって、観客自身の知性や感性によって、目の前の芝居を受け止め、自分の体験した事件として、そこから自分自身の感情や結論を産み出すものだ。
 しかし、この芝居は、観客に「これこれこういう考え方があるんですよ」とあらかじめ作者側によって定められた意図を「教えようと」しているように思われる。寓話。つまり「ビジネスの在り方学習手段」としての演劇である。

 演劇の観客はその意図を感じて拒否反応をする。
 あらかじめその考えの信奉者は「そうだ、よくぞいってくれた」とシンパシーをもち、一方、一般の観客は、自分が自由に感じとることを拒絶され、あらかじめ導かれた結論へ導かれていくことによる精神的な抵抗が生まれ、いらだつだろう。
 登場人物の配置は極端に図式的で、ストーリーは教訓的だ。
 もちろん「学習手段としての演劇」を必ずしも否定するものではない。だが、そのときの演劇はアートではなく教化ツールである。このコンテキストでビジネスの論理は演劇の上にあり、ビジネスと演劇が融合することはないだろう。

 観客にとって演劇を観る最大の楽しみは、舞台の上で起こる未知の事件を体験することである。
 基本的に「With Your」が舞台に提示したのは、「未知の事件」ではなく、「既知の思想」だった。おそらく神田昌典の狙いは演劇という形をした「もうひとつの教本(テキスト)」をつくることだったのだろう。
 観客が教えを請うためにテキストを求めて来たとすればそれでよい。実際に観客の多くはそういう人であっただろうと思われる。だからこの演劇が失敗だとはいいきれない。
 しかし、演劇として見に来た顧客は戸惑い、思想を上から与えられることの居心地の悪さを抱いたであろう。

 もうひとつの問題点は、なぜミュージカルなのか、という問いが未解決であることだ。
 言葉のテンポは心地よく、ほとんどの場面でセリフは面白い。ギャグも達者でたくさんの「笑わかし」に満ちている。その点を取り上げれば一流の舞台の要素をきちんともっている。演出の手腕と役者の力量を感じる。
 であるのに、歌になるといきなり芝居全体のテンポは崩れる。
 さあ、こっからは歌ですよ、みなさん聞いてください、と舞台が勝手にモードチェンジし、スローダウンするのだ。ほとんどの場面で、歌が芝居をぶちこわしている。

 主人公・青島タクに思い入れが集まらない理由のひとつに、敵役・大村テツヤの憎らしさを場面でなく歌と踊りで説明しているだけであるということも大きい。
 記号的な悪役キャラだが、実際にこの上司にいじめられているシーンは歌以外にはなく、タクによる説明だけだ。
 狡猾な上司はたしかに現実にいる。が、それ以上に「自分の実力を過大評価して評価が低いのを上司や会社のせいにする社員」はもっと多い。つまり現実は敵役が歌う歌詞の方にむしろ説得力があるのだ。
 主人公が観客からシンパシーを獲得するには、「なるほど青島タクは優秀なんだ」ということを彼自身の言葉以外の手段で観客に納得させなくてはならない。しかるのちに観客自身の目で「あの上司は理不尽だ」と思わせなければならない。主人公自身が「あいつはひどいやつだ」と語っても観客は納得しないのである。本作にはそのプロセスが欠如していた。安易に歌と踊りで図式化したこともその原因のひとつだろう。

 そこで演奏される音楽の質も確保されていない。全体として人を引きつけるほど歌はうまくないし、曲も凡庸である。セリフは確実にプロのレベルなのに、いくつかの歌を例外として、音楽が始まったとたんに「ちょっとうまいアマチュアレベル」になってしまっていて、このレベルの音楽は聞いていてつらい。作り手たち自身、いったい(知り合いでない)このレベルの演奏家を金を払って聴きに行きたいと思うのだろうか。芝居の中の歌だからこれくらいでいい、と考えているのではないか。
 レベルに達していないなら、無理に音楽を入れる必要はないのだ。役者たちはセリフだけで十分に表現できるのになぜ稚拙な音楽を入れるのか。ミュージカルという甘美な形式に酔っていないか。

(本作の役者たちが実際にミュージカル出演経験のあるキャストであることを思うと、実はこの点は本作に限らず日本のミュージカルに共通した問題であることはたしかなのだが)

 総じて音楽とダンスはディズニーランドのアトラクションレベルだった。ストレスなく聞いていられるミュージカルらしいシーンは、喫茶サンペリのマスターとママのシーン、弾き語りの金谷ヒデユキ、そしてラストの独唱(高橋洋子)など、ごく一部に限られる。

 ここまでに述べたように「演劇の観客」である僕にとってはストレスを感じる舞台だった。
 しかし、それでありながら、ラストの高橋洋子の歌には力があった。バックバンドの演奏も見違えるようなテンションを発揮し、まるでちがうバンドが演奏しているようだ。
 この歌でストレスが一掃され、カタルシスが訪れた。
 有無を言わせぬ目の前の現実であらゆる理屈や感情を圧倒する。これこそステージパフォーマンスの醍醐味である。
 芝居全体のもやもやを一発で吹き飛ばすことのできる、たった一曲の音楽の力を改めて感じた。それだけに全体の作り込みの弱さが悔やまれる。

 純粋な演劇としてみたとき、舞台として「こなれていない」印象ではあったが、楽しむことができたことはたしかだ。したがって、「ビジネスの考え方を伝える手段としての演劇」であると考えれば、できあがりは十分に許容範囲であるともいえる。プロデュースの意図がそこにあるのなら、十分、成功しているといってもよいと思う。

 ビジネスが人間の生きているあたりまえの「社会的環境」である以上、本来、ビジネスはもっと演劇に取り入れられるべきなのかもしれない。
 ほとんどの観客はどこかで職業人として生きている。多くの演劇人も、現実に演劇以外の世界で収入を得ている。ビジネスから離れたユートピアに住む観客はいない。
 であるのに、演劇に中でビジネスが語られることは極端に少ない。
 本来、演劇とビジネスはもっと近くにあるべきなのかもしれない。
 そのために、演劇になかにもっとビジネスがテーマとして入り込むべきだろう。
 
 もうひとつ、この演劇の功績として、ビジネスの論理を持ち込むことで、演劇にお金を引き寄せることができることを証明して見せたことを挙げておきたい。演劇人は「貧乏くさい悲観的現実」に甘んじることなく、経済の視点をきちんと掲げて、資金と観客を獲得する努力を続けるべきだと思う。

 我田引水になるけれど、「夢の遊眠社」が成功したのは、学生劇団の頃からこの視点をもち、さまざまな観客動員の手段を講じていたことも大きいのだ。
 解散までに80万人の観客を集めた遊眠社だが、実は初期の無料公演(お代は見てのお帰り)でも赤字を出したことがなかった。まず観客を、それもふだんは演劇など見ない観客を呼べるだけの宣伝をすること、演劇ファンでない人が見て面白い芝居を作ること、継続的にメディアに告知しつづけること、など、学生劇団だったころから質と収益性の両方を常に追いかけていた。

 映画の世界では、すでにそのような「成功シナリオ」が確立しているにもかかわらず、おそらく多くの演劇人が経済音痴でいることの免罪符として、演劇至上主義の伝統をいまだ抱えていることが、演劇界の大きな問題なのだから。

2006年10月04日

久しぶりの新宿

 午後3時、新宿センチュリーサザンタワーで打合せ。
 終了後、近くでもうひとつ打合せ。
 空き時間に昨夜の原稿の推敲。やはり調子のいいときに書いた原稿は直すところがあまりない。
 とりあえずの夕食は、ついに!! 吉野家の牛丼。

 6時半から、新宿シアター・サンモールにて、ミュージカル「With You」を観る。原作・プロデュースの神田昌典さんから、ご招待いただいたもの。

 終演後、新宿ゴールデン街で久しぶりに羽を伸ばす。
 午前2時すぎまで飲んで、日高屋でラーメンを食べ、のち、いつもの「カフェ・アヤ」にて原稿書きをしながら朝を迎える。
(原稿用紙12枚も劇評を書いてしまって、小説の進みはわずか。なにやってんだか)
 調子に乗って書いていたら、始発はとっくに動いていて、帰宅は午前7時。
 東横線でも書き、家でまた書く。

2006年10月02日

ひきこもり

 一歩も外出せず。ただただ執筆。(頻繁な息抜きと称する逃避行動つき)
 午後5時起床、就寝は翌午前11時。
 本格的な昼夜逆転。
 リオデジャネイロの人とつながって暮らしていると思えばよいのだ。

2006年10月01日

ドーピング

 執筆枚数、4日間の移動平均で、昨日ふたたび記録更新。
 頭と心は、まだ余裕はある感じでもっと行けそう。

 だが、身体はかなりきています。
 左脇腹の肋骨のすきまがイテェ~。いよいよ内臓か? 多分朝方の低温のせいでしょう。

 ストレッチ30分ではたりなくて、3日前からぬるい湯で入浴20分とかも追加してるんだけど。
 チオビタは毎日飲むと心臓がバコバコするので、アリナミンと交互に摂取することに。
 ドライアイがひどくて、日によっては朝起きるとよく見えない。頻繁にスマイル40を入れるようにしなくては。

 その他、ブルーベリーのサプリ、ビタミンAを交互に。
 ビタミンCに、ときどきビタミンE.

 アリナミンもチオビタも休む日はビール酵母。
 公園でスクワットすると膝がちょっと違和感ありなので、グルコサミンとかコンドロイチンとかを気まぐれに摂取。
 あいかわらず部屋は暑いのでタンクトップに短パンだけど、足下に冷たい風は入っていて、二年前にフットサルで捻挫した足首がじわっと痛む。人間って敏感。
 でも、神経性の下痢はまだ出ませんね。まだまだほんとのハイテンションじゃないってこと。

 で、午前11時に寝て、夕方6時まで7時間眠ったら、けっこう元気になりました。

定点観測:コットンマムその後

 場所柄をわきまえず高級志向に走りすぎていることで経営の先行きを心配していた(笑)コットンマムに先週再び行ってみた。
 野菜は以前から安かったのだけれど、オープン1週間ほどしても維持している。なかなか鮮度がよくて、このまま続いてくれればありがたい。
 魚は品揃えが落ち着いて高級から「ふつう」に近づいた。そのかわり、すごく美味しそうなにぎり寿司のパックがあったのが、そんじょそこらのスーパーの寿司になった。ちょっと残念だけど、まあ、スーパーのお寿司としてはむしろこうあるべきでしょう。美味しいものを食べたければ寿司屋にいけばいいのだから。
 肉類もちゃんと下は100g98円クラスのものから並べられるようになった。こうでなければ毎日の暮らしを担うスーパーにはならない。
 そもそもどんな素材でもそれぞれの利用方法があり、美味しい料理を作ることはできる。それが料理文化であり、暮らしの文化レベルというものなのだから、経済的に余裕があるからといって、高級食材ばかり使うとしたら、あまりにも知的レベルがお粗末というもの。(マズイ食材を美味しくする工夫こそがフランス料理をここまで磨き上げたんだし)美味しいものを知っていること、高い食材を買う経済力があること、というのが、毎日高級食材で美食をすることにダイレクトに結びつくわけではない。
(その上、この立地の近くのマンションはそもそも「高級マンション」ではない)

「いい店」というのは高級なものを売る店のことではなく、顧客の要求を高いレベルで満たす店のこと。フランス料理の店の方が立ち食い蕎麦屋より「いい店」であるとは限らない。だめなフレンチレストランもあれば、いい立ち食い蕎麦屋もある。ふつうに「高くて美味しい」のはあたりまえで別に偉くはない。安くてまずい店と店の価値は同じ。高いなら値段以上に「すごくおいしい」ときにやっと「いい店」になるわけだ。
 ときどき勘違いして高級なものを並べた店が「いい店」だと思ってお店を始める人がいる。住宅街にあるシロウトマダムが開く趣味の店(うちの近所にもけっこうあります)がその代表だけど、そういうお店はオーナーの自己満足(趣味)だからある意味、赤字でもいいわけだ。
 コットンマムがそのような店であれば短命に終わってしまうことは目に見えていたので、けっこう心配していた。開店1週間でそれなりに軌道修正が加わっていたのでちょっと安心。ひきつづき今後を見守りたい。

 さて、残るは乾物類。
 全体に有名なブランドを並べた、という印象。つまり、バイヤーが自分の舌で選んだ品揃えじゃないような感じ。よその高級食材点をみてマネをしているだけのようだ。
 紅茶なら「フォーション」「トワイニング」とデパートみたいなラインナップ。日常的に紅茶を飲む人たちに評価の高い日東のリーフティ・オリジナルブレンドなんかは置いてない。日東のこのシリーズはトワイニングよりも確実に美味しくて価格は半分くらい。
 さんざん「こだわりの品揃え」風なんだけど七味唐辛子はS&Bだけしかないとか。
 象徴的なのがSPAM。これはマズイけどアメリカ人は子供の頃から覚えている味なので港区の輸入食品店には必ずある。アメリカ人だっておいしいと思っていないからこそ、迷惑メールのことをSPAMというようになったりしているくらいで、アメリカの味だけど高級でもなんでもないわけで、外国人客が多いわけでもない立地でこのSPAMが妙に売り場で目立つというのも地に足が着いてない証拠。(まあ沖縄料理では何故か「ポーク」と呼ばれる定番の材料なのですけれどね)

 せっかく近くにできた店なので、いい品揃えで長続きしてください。コットンマム殿。
 (店長さんがここを読む可能性をいちおう想定しています)

 以上、経済小説 を書いている主夫、阿川大樹の提言でした。

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