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山場

 原稿用紙300枚を過ぎて、筆は止まっている。
 大きな枠は書き終わっている。
 その部分から読者に与える情報から、読者が自然に疑問に思うことを列挙する。
 読者は最後まで読むうちにそれらの疑問が解けていくであろうと期待する。
 その疑問と、解けるであろうという期待、それこそが本のページをめくらせる力になる。

 そして、最後に、読者が永らく持っていた疑問に答が与えられる。
 その瞬間にカタルシスを感じる。

 あるいは、答を途中で読者には与える。主人公には与えない。
 読者は主人公を天から見ている神になって、無知な故に危険を犯す主人公の行動を見ている。ハラハラドキドキして応援するのだ。
 最後に、主人公自身が取るべき道を見出し、自分の力であるべき行動をとり、難局を打開する。そこで読者がカタルシスを感じる。

 どちらにしても、いま与えられた状況が最終的に合理的なものにならなければならない。いま疑問が生じている理由をはっきりと作り出して、それをできるだけ自然に読者に与えなければならない。

 疑問の答が途中に合理的なかたちで読者に与えられず、最後になって関係者全員が集まる断崖絶壁の上で超越的な探偵役の人物によって与えられると、小説の世界では「2時間ドラマみたい」だと笑われてしまう。名探偵コナンで「おっちゃん」に語らせるアレのことだ。

 専門用語でそのような探偵を「機械仕掛けの神」(Deus ex machina)という。
 物語がこんがらかってわけがわからなくなったのを突然出てきた神様が説明してしまう、という紀元前5世紀頃のギリシャ悲劇の手法であり、21世紀の日本では「ご都合主義」と呼ばれる。

 できるだけ大きな謎を断崖絶壁のシーンを使わずに納得させるのが、小説の技術なのだけれど、突飛なシチュエーションほど、それはむずかしくなり、しかし、突飛なシチュエーションであるほど、物語は面白くなる。

 現実には理由があって事件が起きる。時に小説家は事件を起こしてから理由を考える。
 神様に語らせないと説明できなる危険と賞賛は紙一重。

 さて、事件は起きた。いま、その理由を考えている。

 主人公や読者が何故なのだと思うように、いま、作者も何故なのか、どういう背景ならいまの状況に納得がいくのか、それを考えている。
 だから、文字は埋まっていかない。
 一枚も書かない時間に、物語の重要な部分を作り出すのである。

 なんてことを書きながら、頭の中を整理して、そんな作業を実際にしている。
 ヘッドフォンで、ブラームスの1番とかベートーベンの7番とかを聴きながら。

 2曲聴き終わったくらいでは思いつかない。
 あと1分で解決するかもしれないし、何日、何週間かかるか、わからない。だから苦しい。しかしここが小説を書く楽しさのハイライトでもある。

 ダイジョブか、この物語。

 いまはまだダイジョブじゃない。でも、ダイジョブなはずだ。

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