今朝、四時からの日本テレビ「Oha!4 NEWS LIVE」の中で黄金町が紹介された。
その中で僕が仕事場のスタジオでインタビュー受けているところも放送されたのだ。
そんな時間に誰も見ている人なんていないだろうと思っていたら、起き抜けにメールが2通。
馬車道と野毛の飲み屋のママでした。
夜の仕事をしている人が寝る前に見てくれたらしい。
僕はそのメールを読んでから、録画で見た。(笑)
オートバイでスタジオに。
ランチに「黄金ラーメン」でワンタン麺(今週のサービスで500円)を食べた帰り、やはり同じ放送に出ていた「マイノリティーズコーヒー」に立ち寄って、ひさびさに美味しいコーヒー(480円)をたっぷり飲んで(ここは味がいいだけじゃなくて量が多いのがうれしい)ちょっと歓談。
同番組は、来週の金曜も黄金町特集です。
(僕はもう出ないと思うけど)
来る20日には、日本テレビ「メレンゲの気持ち」にも黄金町が登場。
僕の所も撮影して行きましたが、放送の中で登場するかどうかは不明。
新宿バルト9で劇場公開中の「すべては海になる」(山田あかね監督)を見た。
エキストラで出演している阿川大樹は、試写につづいて二度目だけれど、なんど見てもいい映画だと思う。
改めて、本への思いとか、小説を書く人の思いとか、そんなことを考える。
小説を書くようになって、本を読む時間が少なくなっている自分にちょっと危機感を持ったり。
元演劇人だったこともあるし、小説家なので、一方で、習慣的に作る側の視点が入る。2回見て初めて気づく多数のこと。
小道具に込められた小さなこだわりとか。
あ、主人公千野夏樹の部屋の壁の絵は原作の表紙の絵だ! とか。
三崎口の駅は朝早く到着の設定だけど、影が短いから撮影は真っ昼間だ、とか。
劇中の時間変化より、影の長さの変化が大きくて、撮影にこれこれの時間がかかったらしい、とか。
冬の服装をしているけど、それにしては影が短かい、とか。
書店のシーンは夜中の撮影だったけど、どう見ても昼間に見えて照明さんすごい、とか。
バスは八王子だ。書店は横浜で、タリーズコーヒーも横浜ランドマークタワーの3Fだとか。
もしかしたら大高家の中と外は別の場所だろうか、とか。
カット割りと場面転換がうまいなあ、とか。
ドアの音が、次のカットを先取りしているぞ、とか。
けっして、あら探しとか、裏を暴くとか、そういうのではなく、そうやって観るときに、作っている人たちの思いや技を感じるのがけっこう好き。
夕方、テアトル京橋試写室へ。
山田あかね原作・脚本・監督「すべては海になる」。
この映画、冒頭シーンでいきなり阿川大樹が登場する。手には「フェイク・ゲーム」を持っている。劇場映画、初出演です。(笑)
撮影は真夏の夜中、冷房の止まった暑い書店だったけど、冬の服装をして普通に冬に撮れていた。当たり前だけど。
まあ、ここは、監督のお遊びの一部。ヒッチコック映画で自分が登場するみたいな。
それはともかく、この映画、いい映画でした。
大作ではないけど、いい映画。
もしかしたら見る人を選ぶかもしれないけれど、きちんと作られた上質な時間をくれる作品。
本当は重い題材なのに、映画自体は十分に明るく作られているのも、手腕を感じる。(手腕を感じるなんて、偉そうな言い方で恐縮してしまうけど、だけど、強調しておきたいから)
いかにも立派そうに重く作るのなら、ずっと易しいかもしれない。その方が「大作」に見えたり、あるカテゴリーの観客は「感動」したような気がするかもしれないけど、そうはしていない。
佐藤江梨子をこういう存在感で使うなんて、しろうとの僕には想像もできなかった。(これもレベルの低い褒め方で書くのも恥ずかしいけど)
とにかく、いつでも女優を「美しく」とか「可愛いく」とか、そういう薄っぺらな使い方ではない。
書店員の彼女は、たいていの時間、なんだか疲れていて、生きているのはたいへんだなあ、というふうに見えている。
そして、要所要所で、そんじょそこらの人が到底もっていない神々しさを帯びる。世界が彼女の存在を失ってはいけないと思う瞬間が短い時間だけど、しっかり、狙われて作られているように思う。
それが、スクリーンいっぱいに映ればシワまで見えてしまう、映画の中の女優の使い方なのだ、と気づかされる。
問題は、たぶん、「この映画の良さを短い文字で表現する」のがとても困難な映画だということかもしれない。
見ないとわからないいい映画。
もしかしたら公式サイトやパンフレットでは伝えきれない。
それは興行的には困ったことかもしれないけれど、つまり、映画の1時間59分をもってして、初めて表現できるものを持っている映画だってことだ。
エキストラとして、台詞もない役をこなしただけだったけれど、おしまいのタイトルロールに、阿川大樹の名前がクレジットされていた。
「撮影の時に栄養ドリンクを差し入れした」という以上に、僕がこの映画に貢献しているものはない。むしろ、僕が映画の現場を勉強させてもらった上にロケ弁をご馳走になった、といった感じ。
けれど、いい映画に名前が刻まれていると思うと、無条件にうれしい。
京橋の試写室を出てから、いい気分で銀座を歩いて新橋まで。
途中、山田監督に電話して「よかった」と伝えようと何度も思ったけど、意外にシャイな僕は、それができずに新橋の立ち飲み屋でちょっと空腹を満たして、帰宅。
長編、追い込みモード中で、テンションが抜けたらどうしようという不安があったけれど、作品を作る人の執念というか熱意というかが感じられて、むしろエネルギーをもらえた。
そのお陰で、帰ってから年末進行の連載エッセイも、さらりと1時間、 pomera で書けてしまった。
1月23日から全国で公開です。
映画「すべては海になる」公式サイトは こちら です。
夢の遊眠社の創立メンバーで現在東京芸術劇場(芸術監督が野田秀樹)の副館長・高萩宏さんが「僕と演劇と夢の遊眠社」(日本経済新聞出版社)を上梓したので、出版記念パーティに招かれて行ってきました。
250人ほどの大パーティ。
演劇関係者が中心で小田島雄志さん、扇田昭彦さんなんかも発起人。
野田秀樹も発起人だけど来なかった。(笑)
結構、平均年齢の高いパーティ(笑)
途中、遊眠社初期のメンバーということで、田山涼成、上杉祥三、松浦佐知子、川俣しのぶの俳優陣と並んでステージ立ち、ちょっとスピーチしました。
帰りに電車でさっそく読み始めたけど、けっこう面白い。
演劇を、内容に妥協せずにきちんとペイするビジネスにしたという意味で、夢の遊眠社とプロデューサーだった高萩宏の功績は、やっぱり大きいものだと再確認した次第です。
よい芝居と商業性は対立すると、当時の多くの演劇人は決めつけていたところがあった。
演劇というのは金にならない、とみんなが思いこんでいた中で、はっきりとその点を変革したのは、(友達が書いた本であるということを別にしても)日本の文化史の中でやはり、記録されておくべきことで、その意味で、よい本だと思います。
遊眠社にいたことはやっぱり僕の人生に大きな影響を与えています。
芝居の世界でも、文学座とか、青年座とか、そういう既存のエスタブリッシュメントはあったのだけれど、そのまったく外に、新しく道を創ることができるのだ、ということを実際に体験したことで、僕の人生の選択は自然に広くなった。
目的に到達するために、道を選ぶだけでなく、場合によっては道から造ればいいのだ、と。
遊眠社は、演劇に於けるアントレプレナーシップそのものだった。
あらためて、よい友人に恵まれていい時間を過ごしたのだと、思いました。
何人かの友人たちに久しぶりにあったけど、考え事をしたくて、まっすぐに帰ってきました。
6月最後の日。今年も半分終わってしまった。
人生は短い。
午後1時、ずっと沖縄に住んでいた従姉妹がスタジオにやってくる。
本土で会うのは、何年ぶりだろう。(笑)
沖縄のこととか、家族のこととか。
午後4時過ぎ、シネマ・ジャック&ベティで、映画「アライブー生還者ー」を見る。
「アンデスの聖餐」を扱ったドキュメンタリー。
おそらく僕にとって長い期間のテーマになるだろう。
家を出るとき雨。帰りは曇り。
スタジオに傘が増える。
「A地点とB地点の間を1日に1往復する場合、トータルで傘が何本あれば、晴れた日に傘を持って帰らずに、あるいは、帰りの雨のために降っていないのに持って出ることなしに、必要なときに傘をさすことができるだろう」という数学の問題を考える。
行き帰りの時間帯の降水確率、その標準偏差、などをデータとして揃え、目標とする安全度を定めれば、求められるはず。
経験的に、「濡れてもいいや」と夕刻は雨の予報なのに傘を持っては出ない、というポリシーで何十年も生きていても、それほど困ったことはない。
朝降っていなければ、夜もあまり降らない、と朝の天気と夜の天気はそこそこ相関があるから、朝の天気だけで傘をもつかどうかを決めても、結構、夜は安全だということなのだろう。途中で降っても遅くまで仕事をしていれば、帰る頃には雨が上がっている、なんてこともある。
帰りは濡れても家について着替えればいいから、どうしても傘が必要ってわけでもない。
もっといえば、「雨が上がるまで帰らない」というポリシーを適用すると、傘などなくても、帰りに雨に降られて濡れる可能性は簡単にゼロにすることができる。
創意工夫があれば(笑)問題は簡単に解決するものである。
途中、仕事を中抜けしてシネマ・ジャック&ベティでベイルートを舞台にした映画「キャラメル」を見る。
「やっぱり猫が好き」と「八月の鯨」を足して二で割ったような映画。
結構、好き。
玉泉亭でタンメン(600円)。おいしい。
夜10時すぎ、徒歩で帰宅。
妻も食事がまだで、手分けして夕食を作って食べる。
近所のシネコンで、本日最終日の「スラムドッグ$ミリオネア」を観る。
(まもなく着手する書き下ろしの資料でもある)
インド映画の形式を借りたイギリス/アメリカ映画。
きわめてシリアスな状況をただシリアスなものにせずにきちんと娯楽作品に仕上げたところが素晴らしい。
これを目いっぱい重たいトーンで描いたところで、伝わるものは、結局、この映画と同じだ。だったらストレートな、ラブストーリーにしてしまえばいいじゃないか、という発想が意表を突かれる。
日本人なら絶対シリアスな映画にすると思う。
あらすじにしたら陳腐でも、映像はちゃんとそれ以上のものを語るのだ。
何をどれだけしっかりと描こうと、最後は娯楽に仕立てる。
映画と小説が同じようにできるとは限らないが、このスタンスは僕としても小説の方向性として学びたいと思った。
いったん帰宅した後、午後4時にスタジオへ出勤。
頭のなかでころころとマリモのように成長の兆しを見せ始めた書き下ろしのイメージを文字にし始める。
昼は「聚香園」でランチ。(700円)
実はスタジオからいちばん近い中華料理店なのだけど、入るのは今日が初めて。
メニューも本格的で美味しい店だった。
入るとき、店の外でメニューを見ていると、一軒おいて隣の映画館の支配人Kさんがキャスターで荷物を運び込んでいる。
「あとで、2本、観に来ますから」
午後5時、スタジオのご近所であるその映画館「シネマ・ジャック&ベティ」へ。
チケットを買って、隣の売店を見ると副支配人のAさんがいたので、「著者が売る本屋さん」のフライヤーを置かせていただくお願いをする。
この映画館、木曜日はメンズデーで男性1000円なのだ。もちろん毎週水曜のレディスデーもやっている。女性だけ特典があって男性にないのは Political Correctness に反するとかねがね思っていたので、これは快挙、としっかり利用させていただく。
そうでなくても今週で終わってしまう「キューバ映画祭」を見るチャンスは今日だけ。
「サルサとチャンプルー」、そして午後7時からの「低開発の記憶」。
移民と革命はライフワークなので、小説のための芸の肥やしだ。
「低開発の記憶」は、キューバ革命をブルジョワの側から描いた映画。そういえばキューバというと革命にばかり目が行ってしまい、革命前のキューバについての興味が欠落していたことに気づかせられた。
それにしても、この映画、ものすごく視点がニュートラルである。革命礼賛ではなく、もちろんかといって革命に敵対的でもない。革命後のキューバでこの映画が作られたことを考えると、キューバの社会主義の比類なき素晴らしさがうかがわれる。カストロという人はスゴイ人なのだとあらためて思う。
一日に映画を2本観るなんて高校生のとき以来かもしれない。
映画を見た後は伊勢佐木町6丁目の「慶興」で食事。
ここの主人は忌野清志郎にそっくり。値段は中華街値段、伊勢佐木町にしては高いけれど、味は確かだ。
メニューは多彩だけど、できないものも多く、できても他のものを勧められたりして、ここの場合はそれも不快ではなく、個人経営のよさかも。
友人の山田あかねさんの原作脚本監督の映画が発表になりました。
「すべては海になる」。
佐藤江梨子 柳楽優弥 ダブル主演
2010年新春 新宿バルト9・梅田ブルク7 他全国ロードショー
実はこの映画に『フェイク・ゲーム』を立ち読みしている書店の客として(笑)、僕も登場します。
4月に空調の切れた深夜の書店で冬のコートを着ての撮影は暑かった。
公開はまだ少し先ですが、いまのうちに原作を読むのもお薦め。(いい小説です)
当日は、撮影のあいまに、山田監督に主演女優の佐藤江梨子さんを紹介してもらって、『D列車でいこう』をプレゼントしたのでありました。
前に観たチェ・ゲバラの映画の続編。
109cinemas 10周年価格で、昨日だけ1000円だったので、見に行ってきた。
キューバ革命の後、チェ・ゲバラがボリビアの革命運動に関わり、追い詰められ捕らえられ殺されるまで。
キューバ革命で華々しい英雄になったチェが、同じようには成功できなかったという、いわば暗い暗い失敗物語である。
革命が成功するためには、たぶん、革命を目指す人々の死屍累々が必要なのだ。成功する保証がないならやらない、という人ばかりでは、社会は変わらない。
社会はチャレンジャーという奉仕者を求めている。

観世流能楽師・岡庭祥大さんからチケットをいただいたので渋谷の観世能楽堂まで能の鑑賞に。
能楽堂のある松濤町は徒歩だと東大駒場キャンパスと渋谷駅のちょうど中間地点あたりにある。
かつて高級な女子学生会館があり、北海道から出てきて上智大学に通っていた女の子を送っていったことがあった。35年くらい前の話だ。(笑)
会館の周囲には防犯カメラが設置されているので、近づいてからお別れのキスなんてしていると、録画されてしまう、という会話をした。(会話だけですってば)
演目は能 翁(おきな) 関根祥六
舞囃子 高砂(たかさご) 関根祥人
狂言 素袍落(すおうおとし) 山本則俊
舞囃子 熊野 村雨留(ゆや むらさめどめ) 観世清和
能 道成寺(どうじょうじ) 岡庭祥大
休憩を挟んで5時間におよぶ演目のため、僕は狂言「素袍落」から最後までを観た。もったいない気もしたが、心が疲れてしまうと岡庭祥大さんの道成寺までテンションが続かないと思ったのだ。
素袍落は、主人の使いで出た太郎冠者が使い先で酔っぱらってしまう、というシチュエーションを描いた落語の長屋話のような面白い話。太郎冠者が次第に酔っていく様が実に滑稽でよかった。
道成寺は天台宗の道成寺という寺の鐘にまつわる女の怨念を描いたもので、跳び上がって鐘の中に消え、出てくると般若になった女が乱舞するという大曲。
鼓や笛の音色と、声を楽器のようにあやつる鼓方と、静の中に瞬間の動を表現するシテの、緊張感ある駆け引きのインプロビゼーションによる長い長いクレッシェンドのような展開から、それまでの静を一気に打ち破る、怨念の素早い切れのよい大立ち回り、というエンターテインメント性豊かな芸術だった。
僕は今まで能楽堂で能を観ることはほとんどなく、野外の薪能などがほとんどだったけれど、素晴らしい物を観ることができて幸福な時間だった。
鍛えられた体力と体の切れを持ちながら、ほとんどの時間を「静」で満たす能はものすごく不思議な舞台芸術だ。

売店では袴にする反物が売られている。仕立て上がりで139000円。
チケットはA席で15000円だし、古典芸能はお金がかかるなあ。
でも、すべての人がその一生をかけて技を磨いている、そういう演者による、能や狂言や歌舞伎やクラシック音楽がそうそう安くはできないのもわかる。経済原理でこういうものが失われては困るのと同時に、文化を育てるためにこそ、もう少しコストダウンはできないのかとも思う。
会社員だった父がどうしたきっかけか宝生流の謡(うたい)を習っていて、一時、家で練習をしていたり、結婚披露宴で余興として「高砂」なんかを謡っていたりしたのを思い出した。家にあった謡の本は処分してしまったのかな。

封切り初日に行こうと思っていて、事情で先延ばしになっていたのを、先ほど見てきました。
キューバ革命の立役者「エルネスト・チェ・ゲバラ」のドキュメンタリータッチの物語。
ゲバラに対する十分な知識がないこともあって、よくわからないところや、視覚的にカストロとゲバラが区別できなくなってしまうところがあったりで、部分的に頭の混乱が起きたけど、すごく面白い映画でした。
ゲバラをヒーローとして描いているということは、キューバ革命を全面的に肯定している映画であるわけで、それをアメリカが作っているところが、アメリカの懐の深さですね。ふだん、目一杯ふところが浅く見える(笑)アメリカですが、こういう映画を作る国でもあるんだ。
だって、アメリカこそがキューバの敵であり、ゲバラが南米で活動していたときの、本当の敵だったわけだから。
冷戦時代も遠くなりにけり、ということなのかもしれないけれど。
僕の一番ストレートな気持ちは「キューバ革命やゲバラについてもっと勉強してからもう一度みたい」ってこと。
少なくとも、この映画を観ていると、キューバ革命がなぜ成功したのか、という理由の一つがはっきり見えてきます。(と、シロウトの僕は思った)
よく左翼の一部の薄っぺらな人で、相手を論破できないときに、学歴や出自を持ち出して、裕福な家庭で育った人間には、または、高学歴の人間には、弱いものの痛みはわからない、なんて議論にならない、根拠にならない、反則中の反則の話、禁句中の禁句を持ち出して、議論の相手を唖然とさせる人がいるのですが、そんなときにギャフンといわせるいい表現が見つかりました。
「じゃあ、君は、裕福な家庭で育って自分自身医者だったチェ・ゲバラは人々の痛みがわかっていなかったとでもいうのか」
今度からそういってみよう。
(て、まったくレベルの低い話でスミマセン)
革命っていうのは、先鋭化した活動家がいくらいてもダメで、ノンポリを自分の味方にすることによってはじめて成功するはずのものだ。
だからこそ「あんたにはわからない」なんて言葉は、活動家としては絶対に吐いてはいけないセリフだからね。
革命というのは活動家が「人民の前衛」に立つだけじゃなくて、前衛の後ろにたくさんの人民がいないと成り立たない。「あんたは僕の後ろにこなくていい」と自分の方から人民を分断してしまう革命家はだめである、ということが、この映画を観ればわかるはず。
活動家のみなさん、ぜひ、ゲバラに学んでください。
最近、プラクティカルな議論ばかりで、思想的な議論をしていないので、右翼でも左翼でもいいから、久しぶりに、ちゃんと議論のできる人と話をしたいなあ、なんてことも思った夜でした。

午前7時半、起床。
8時朝食。(おお!)
9時半になったので、スポーツクラブへ。(おおお!)
11時半、クインーズスクエア地下のタイ料理「ゲウチャイ」でセンレック・ナムトックムという赤い汁ビーフン(すっぱからい)でランチ。
家で仕事開始。
なんだか腹が減って、レトルト「カレー職人」でカレースパゲティ。(やっぱり運動すると腹が減る)
夕方になって、進捗をあきらめて100円バスで黄金町へ向かう。
シネマ「ジャック&ベティ」でドキュメンタリー映画「フツーの仕事がしたい」の21時の回のあとに友部正人のライブがあるというので、見に(聴きに)行く。
少し早めなので、1階のカフェ(レジが映画館のチケット売り場になっている)でアイスコーヒーを飲みながらちょっとだけ仕事。
直が近づいたので劇場に行くと、切符のもぎりをしていたのが映画館の梶原社長で、挨拶がてら一言二言。
映画はほとんど土屋トカチ監督が一人でとったドキュメンタリーで、「リアル蟹工船」というキャッチフレーズがついたトラック運転手を巡る物語。
月間500時間以上働いている現実の運転手がユニオンを通じて理不尽な労働条件を変えていく話。重たい映像だったけど、「理不尽なものに負けない」というメッセージは伝わってきました。
土屋トカチ監督は、近所に住んでいるらしく、毎日舞台挨拶に来ているらしい。僕の観た回も、終わったら登場して友部正人のライブが始まるまで、MCをしながらミニトーク。
映画の終わったあと、22時半近くから友部正人のライブ。
友部は1972年デビューのフォークシンガーで多分、僕と同年配でフォークに染まったことのある人は必ず名前を知っているシンガーソングライター。僕が生で聴くのは初めて。
デビュー36年を経て21枚のアルバムを出しているのに、演奏技術というものを敢えて拒絶したようなシンプルなギターを弾きながら、存在感のある声でシャウトする歌い方。
出色なのは不条理でありながら叙情性をもった歌詞。
虚構の世界をつくってみせるところがちょっとすごい。
(友部正人は高島町に住んでいるらしい)
23時にライブ終了。
疲れたので、都橋商店街まで歩いて、サントリー角の水割りを3杯飲んで帰宅。
オリンピックが終わってやっとニュースが見られると思ったら、NHKの9時のニュースはオリンピックばかりだ。
もう知っていることばかり繰り返すニュース番組ってなんなのさ。
どこも新しくない。
伝えるべきこといくらでもあると思うんだけどなあ。
青山祐子さん、セクシーで嫌いじゃありませんが。
オリンピックは十分楽しんだので、その間、失ったものを早く取り戻させて欲しいなあ。
むしろ、オリンピック中に伝えなかったニュースの総集編をやってほしい。
若葉町のレトロな映画館「シネマ・ジャック&ベティ」の一階に新しくできたカフェまで自転車で行ってみようと思った。もしかしたら仕事場に使えるかなと。
ところが、店の前に着いたらちょうど『ハブと拳骨』というコザを舞台にした映画が始まる時間。
二階の映画館で予定外に映画を観てしまいました。
映画、ピア系の監督にありがちにテンポが悪いところがあったけど、そこそこ楽しめました。三線とカチャーシーがちょっと嘘っぽかったのは、もう少し練習すればなんとかなっただろうにと思うと残念。
予告編でなんとグラミー賞8部門の歌姫ノラ・ジョーンズ映画初主演の『マイブルベリーナイツ』を発見。見なくては!
それに『パークアンドラブホテル』というのも面白そう。
映画自体久しぶりだけど、ちょっと火がついた感じだ。
深夜は、小説に復帰。

GR Digital
シネマ・ジャック&ベティで開催されたトークショー「荻野アンナが聴く 横浜の女性ライブトーク 常磐とよ子が撮った昭和という時代」を聴きにいく。
いつもなら156系統滝頭行きのバスに乗って黄金町で降りるところだけれど、このバス、祝日は運行されていない。かわりに「みなとみらい100円バス」が日ノ出町駅まで運行されているので、それで。
安くすむかわりに少し歩く。
常磐とよ子さんは、女性写真家の草分け。僕が生まれた1954年に24歳で写真を撮り始めた人。
午後4時に終わり、伊勢佐木町を歩いていたら吉野家を発見! 今年初めて吉野家の牛丼を食べる。(380円)
日ノ出町駅まで歩いて、100円で帰宅。
(雨じゃなければ歩いて帰ってもいいところだけれど)
0時をまわってからは、仕事の参考資料として映画を2本。
「ザ・エージェント」「ラストゲーム」(どちらも邦題、原題は似ても似つかない)。
前者は駄作。後者(スパイク・リー監督)はいい作品だと思った。
阿川大樹お気に入りのドキュメンタリー映画「ミリキタニの猫」が、これまたお気に入りの映画館シネマ・ジャック&ベティ(横浜)で本日から上映されます
「ミリキタニの猫」
The Cats of Mirikitani
http://www.uplink.co.jp/thecatsofmirikitani/index2.php
シネマ・ジャック&ベティ
http://www.jackandbetty.net/
231-0056/横浜市中区若葉町3-51
TEL.045-243-9800 FAX.045-252-0827
◆京浜急行線 黄金町駅下車 徒歩3分
◆横浜市営地下鉄 阪東橋駅下車 徒歩5分
上映時間 10:30 14:05 (ただし 2/2 は 10:00 の1回)
料金 大人1700円 大高1500円 中小シニア1000円
。
この映画に関する阿川大樹の映画評は、以下のURLで。
http://www.agawataiju.com/diary/2006/08/the_cats_of_mirikitani_1.html
というわけで、すでに見ているのですが、時間を作ってもういちど行きたいと思っています。
去る1月27日の大阪国際女子マラソン。
福士選手がオリンピック出場権を目指してマラソンに出場して独走したけど、途中から走れなくなって、惨憺たる結果ながらゴールしました。
彼女は1万メートルとハーフマラソンの日本記録保持者で、立派なアスリートだと僕は思っています。
しかし、マラソンにおいては全然だめでした。
オリンピックアスリートというのは、結果の世界で勝負する人であって、他人を感動させる女優やエンターテイナーではない。24時間テレビの欽ちゃんとはまったくちがう。
だから僕は彼女を評価しません。実際、見ていて感動もしませんでした。
(高橋尚子がきらいなのも「みんなに元気をあげるために走る」みたいなことをいうからです。「自分が勝つために走るんです」といってくれたらいいのに)
準備期間が一ヶ月だったとか、練習でも40Kmを走ったことがなかったとか、とんでもないことが伝わってきます。
チャンレンジは否定しません。
しかし北京オリンピックがあるのはずっと前から判っている。
僕の友人知人にはマラソンを完走した市民ランナーは何人もいますが、異口同音に「ハーフマラソンとフルマラソンは全然違う」といいます。
マラソンはハーフマラソンの二倍なのではなくて、まったく別の競技であることは、広く知られていることです。
僕自身、フルマラソン完走のためにトレーニングしたことがあるので、マラソンを走りきることがどれだけ大変であるかそれなりにわかっているつもりです。
でも、福士さんは40Kmを走ったことがない ???
(そりゃあ市民ランナーには42Kmを初めて走るのがレース当日という人はたくさんいます。なにしろ完走するのに7時間かかったりしますから、ふつう練習時間が確保できません)
個人として、どのようなアプローチをしようとそれは自由だけど、結果がすべての競技の世界で、素人の僕から見たって準備の仕方がまるっきり間違っていて、やはり結果もその通り。
競技で生計を立てている人のことを「最後まで走って立派だった」なんていっちゃいかんです。
マラソンを最後まで走ること自体は立派です。
そういうレベルの立派な人は僕の知っているだけでもたくさんいる。テレビに映っているから立派なんじゃない。何万人も立派な人はいる。僕はできないからそれができる人をもちろん尊敬しています。
でも、あの場所はそういう場所じゃなくて、オリンピックアスリートを選ぶ場所だから、その基準で評価しなくちゃ。
急にマラソン代表になりたくて、時すでにレース一ヶ月前だったとして、残り枠は事実上一人だとして、まだ高橋尚子もこれから走るという状況で、そのような条件の中、代表選手になるためには、ぶっちぎりのタイムで優勝するしか道はない。だから最初から飛ばして神憑り的な結果に賭ける、という戦術しかなくて、それを実行したのは妥当だと思います。
彼女が選ばれるとしたら、つぶれるリスクを覚悟の上で飛ばしていくしかない。最初から飛ばしたのは妥当な戦術ではある。
それを一か八かで実行してダメだったということです。誉めるような要素はどこにもない。
中学校の全員参加のマラソン大会だったら僕も誉めます。
でも、オリンピックアスリートを選ぶ場所で、福士さんより上位にいる人よりも彼女が立派だとはまったくいえない。
福士さんがあの瞬間なりにがんばったというのは事実だけれど、むしろ、彼女より先に倒れずにゴールした人の方が、福士さんよりずっとずっとがんばったのだということを忘れてはいけない。
結果じゃなくガンバル人を誉めるのだというなら、やっぱり福士さんより上位の人を誉めるべきだと思います。あんなところで倒れてしまう福士さんは、むしろ頑張り方が足りなかったからああなったのです。
テレビ局にとっては大喜びのシーンでした。
自分の目にどう見えるかではなく、見えないところで何が起きているか。福士さんより前を走った人が、どれだけのことをしていて、福士さんには何が足りなかったのか。
テレビを見てそれを考えないと真実を見誤ります。
テレビに映っているものがすべてではない。
ところで、努力は自分のために必要だからするのであって、努力そのものに価値があるわけではありません。
子供の教育の過程では努力の必要性を教え成功体験を身につけさせるために努力を誉めるのは必要なことです。大人の世界では結果を伴わない努力は認められない。
努力を誉められる人にはなりたくない。そういう自戒をこめて。
当日のトップ10は以下の通りでした。
阿川大樹は福士さんを讃える代わりに、以下の方々を讃えたいと思います。
大阪国際女子マラソン成績 時 分 秒
〈1〉ヤマウチ(英) 2.25.10
〈2〉森本 友(天満屋) 2.25.34
〈3〉モンビ(ケニア) 2.26.00
〈4〉大平美樹(三井住友海上) 2.26.09
〈5〉扇 まどか(十八銀行) 2.26.55
〈6〉シモン(ルーマニア) 2.27.17
〈7〉奥永 美香(九電工) 2.27.52
〈8〉藤川 亜希(資生堂) 2.28.06
〈9〉トメスク(ルーマニア) 2.28.15
〈10〉ドネ(仏) 2.28.24
阪神淡路大震災の日。
朝日新聞には、神戸在住の作家・高嶋哲夫さんの「地震の日」をイメージした小説(?)が32面前面をつかって掲載されている。
神戸観光特使でもある僕は、地震の被害から復興をめざす長田地区の商店街なども視察したことがある。『D列車でいこう』にも、主人公・由希も学生時代にこの地震を体験したときの描写がある。
夕方、肺ガンで療養中の伯父の訃報が入る。昨年正月には叔父が亡くなっていて、父親の兄弟はついに伯母一人になってしまった。
それにしても、僕の親類はガンだらけ。
死亡原因の第一位だから死因が癌であるのは当たり前なのだろうけど。
ちょうど高嶋さん原作の映画『ミッドナイトイーグル』をまだ見ていなかったので、近所の映画館のスケジュールを調べたら、おっと、明日18日までとなっているではないか。
執筆に行き詰まっていることもあって、レイトショーで観る。
原作を読んだのはかなり前で細かなことはそれほど覚えていないのだけれど、映画の印象は小説よりも自衛隊や政府が好印象に描かれている。映像的に自衛隊の本物の車両や航空機をつかう関係で、テイストがかえられているのかもしれない。
(だからといって、そうした変更が悪いわけではない)
後半は、これでもかと泣かせるシーンを詰め込んであり、大仕掛けでありながらかなりウエットな映画でもある。
小説の方が面白いと思うのは、僕が小説の人だからかな。
『D列車でいこう』を読んで、こんな感じに映画化を考えてくださっている方がいます。
ありがたいことです。
http://yuusuke320.blog115.fc2.com/blog-entry-132.html
現実の『D列車でいこう』映画化の話は、まだ内緒の段階なのでお話しできませんが、いろいろ動きはあります。
どちらにしても、映画は映画の人の作品なので、原作者は映画作りにあまり関わらないのですが、逆に、半分内輪、ほとんど他人、というポジションから楽しみにしています。
『D列車でいこう』を読んで、こんな感じに映画化を考えてくださっている方がいます。
ありがたいことです。
http://yuusuke320.blog115.fc2.com/blog-entry-132.html
現実の『D列車でいこう』映画化の話は、まだ内緒の段階なのでお話しできませんが、いろいろ動きはあります。
どちらにしても、映画は映画の人の作品なので、原作者は映画作りにあまり関わらないのですが、逆に、半分内輪、ほとんど他人、というポジションから楽しみにしています。
第16回サントリーミステリー大賞の候補は3人。
大賞の高嶋哲夫さんはもちろん、新井政彦さん(日本ミステリー文学大賞新人賞)、阿川大樹(ダイヤモンド経済小説大賞優秀賞)と、同期3人とも、いまでは作家デビューしています。
そんな縁で、ときどき3人で呑んだりしています。
そんな高嶋哲夫さんの話題作を映画化した映画『ミッドナイト・ イーグル』が11月23日から全国で公開されています。
邦画として初めての日米同時公開。それてすごいです。
阿川は原作を読んでいますが、スケールが大きくてとっても面白い。まさにハリウッドスケールの物語。
映画も時間を作って絶対に見に行ってきます。
映画の公式サイトは、 こちら。
原作の文庫版『ミッドナイトイーグル』は こちら です。
映画についてGyaoのサイトの文章ではこんなかんじ。
【STORY】 厳冬の北アルプス上空。米軍の戦略爆撃機“ミッドナイトイーグル”が深夜、忽然と姿を消した。搭載された「特殊爆弾」が起爆すれば、日本全土を未曾有の惨劇が襲う。機体回収に向かった自衛隊の特別編成部隊だったが、彼らを待ち受けていたのは想像を絶する吹雪と、敵国工作員の精鋭部隊だった…。映画化は絶対に不可能といわれた、高嶋哲夫の同名小説がついに映画化! 雪山の山岳訓練を積み重ね、極寒の北アルプス山岳シーンに果敢に挑戦したのは、大沢たかお、玉木宏、吉田栄作の3人。ヒロインには竹内結子を迎え、2008年のお正月映画第一弾作品にふさわしい壮大なスケールの作品が完成しました。
『ミッドナイト イーグル』
2007年11月23日 全国拡大ロードショー
出演:大沢たかお、竹内結子、玉木宏、吉田栄作、袴田吉彦、大森南朋、石黒賢、藤竜也
監督:成島出/原作:高嶋哲夫「ミッドナイトイーグル」(文藝春秋刊)
製作:「ミッドナイト イーグル」パートナーズ
協力:防衛庁、陸上自衛隊、航空自衛隊
2007年 / 日本
すでに見てきた人の情報では、予想通り、とても面白かったということでした。
以前にはエイプリルフールでお騒がせしましたが、阿川の作品の映画化も、現在、某所で秘密裏に画策されています。それ以外にも、内緒のアクティビティもあり、すべて順調なら、2009年(再来年です)には、阿川大樹原作の映画/TVドラマ作品が、続々、公開されるかもしれません。乞うご期待。
最近、CMで Will You Dance ? が流れるので、昨晩あたりから Napster で、ジャニス・イアンを聞いています。
ジョニ・ミッチェルもそうだけど、このあたりみんな健在で、それぞれにちゃんと進化を遂げているんだなあ。
Will You Dance ? といえば、テレビドラマの不朽の名作「岸辺のアルバム」です。
なぜか「あなたバナナジュース好きね」というセリフが頭に残っています。
代理人からメールが来て、原作料の一部が近々に入りそうなので、かろうじて年が越せそうだ。(笑)
昨日はシリコンバレーの風だったけど、どうやら今日は沖縄の風。
まず、12月に行くANAのチケットをファイナライズ。
そしたら、Gyaoのメールで映画「Aサインデイズ」がまもなく終了という連絡。あわてて観る。
「Aサインデイズ」は、ベトナム戦争当時の沖縄コザが舞台。 コザは、嘉手納基地の門前町で、僕がいつも行っている場所だ。今となっては一緒に呑んだ友だちが20人くらいはいる。
この映画は、『喜屋武マリーの青春』というノンフィクションが原作で、コザが他のどこにも似ていない形で独特の輝きをもっていた時代の物語だ。
中に出てくるライブハウスは、「セブンスヘブンコザ」にそっくりだし、「ニューヨークレストラン」に似ている店も出てくる。裏通りも見たことのあるようなところ。
日曜日(28日)に開店40周年を迎えたいきつけの「カフェオーシャン」もかつてはAサインバーだった。映画に出てくるライブハウスもカウンターはむしろこっちの店に似ている。
そんなわけで、今晩はコザのことを考えている夜である。
次の小説は歌舞伎町を舞台にニキータのような女性(?)を書くつもりなので、プロットをつくりながら、歌舞伎町関係の資料を読んでいる。
あとは、ドーピング関係の資料調査。もうひとつは、この間取材をしたシャッター通り商店街。
なにしろ、当分長編書き下ろしが続くので、いろいろと資料読みや取材準備が同時並行。
コザのホテルも予約しなくては。
週末キャンペーンでDVDレンタルが100円だったので、2本借りてきた。
とある事情で、明日、至急見なくてはならないタイトルができたので、いま借りている分を深夜に続けて2本見る。
ひとつめは「フラガール」
全篇「泣かせ」の仕掛けたっぷり。よく泣ける映画。
日本アカデミー賞最優秀作品賞に異存はないけど、泣かせればいいってもんじゃないとも思う。次こうやってくるな、と読めてそのとおり攻めてきて、それでつい泣いてしまう。あんまりなコテコテの作り方でもある。でも、エンターテインメントとしてすごくよくできていたのはたしか。立派です。
パッチギと同じ李鳳宇プロデュース。監督はぴあシネマフェスティバルから出てきた李相日。この在日コリアンコンビはなかなか強力。
松雪泰子もようございました。
もうひとつは「バックダンサーズ」。
こちらは、ちょっと残念なできあがりでした。
急にメインボーカルが引退してしまって、取り残され活動の場を失ったバックダンサーのリベンジ、というアイデアはすごく面白いと思うのだけれど、すべてにおいて作り方が雑な印象。
子供の頃、世田谷に住んでいたので、10月1日は「都民の日」で区立中学が休み。でもって、近所の天祖神社のお祭り。でも、この日はたいてい雨なのだ。境内にあまり人がいない寂しいお祭り。
本日も、その例に漏れず、雨降りでした。
夕方から神宮前へ。
ダイヤモンド社の9階で桂吉坊さんの落語を聴く。上方落語を生で聴くのは初めて。
午後9時すぎ、原宿駅近くでパーティ。
こうみえても人見知りなので、必死で知っている顔を探す。
(バイオリズム的に社交的なエネルギーがあまりなかったし)
運よく「ゴールデン街友だち」のCさんを発見。パーティ主催者のTさんと同じ店に出入りしていることは知っていたのだが。
そこそこのタイミングで新宿へ移動してゴールデン街へ。
いやあ、何ヶ月ぶりだろう。
なじみの店でなじみのメンバーがいて、なんとも懐かしい。
そこでも「パッチギ」の話になり、プロデューサーがなんとCさんの知り合いだったり、実は僕がこの店にいっしょに来たRちゃんは井筒監督のヨメはんだったんだよ、えー、みたいな話になる。店のオーナーは京都の人だし。
まだ朝まで飲んでいる体力はないので、終電で帰宅。
なんだか「パッチギ」の風が吹いているようなので、深夜2時頃からビデオで「パッチギ」を見る。
京都を舞台にしたロミオとジュリエットの話。
他の映画でいちばん似ているのは「グリース」かな。
「結局、何も変わらない、それでも人間はみんな生きていく」というような話。
理念よりも現実を泳いでいく哀しみと自然さとたくましさの物語、とでもいうのか。
映画と小説の作り方の上での決定的なちがいをつくづく感じる。
あんなに説明しないで物語を運べる映画というのが羨ましくもある。もちろん小説でなければできないこともある。
この映画でなんだかふっきれた気がする。
明日一日は雑用があるけれど、やっと頭と身体が小説家にもどってきているのを感じる。
24時間テレビ(日本テレビ)は、好きな人と嫌いな人にはっきり別れるようで、僕の知り合いで24時間テレビを見る人はほとんどいない。
もちろん、僕も見ない、というか、事前情報を聞いてはいたが、いったいいつ行われるのか興味もないので知らなかった。
で、たまたまチャンネルを替えたら、欽ちゃんがあと1.5Kmくらいで武道館に着くけれど、放送時間内には間に合わなそうだ、というところで、「間に合わない」というところが妙に気に入って、番組的にどう落とし前をつけるのか、そこに興味が湧いてしばらく見てしまった。
人はたまに感動して泣きたくなる、という一種の「心の生理現象」みたいなのがあるのは理解はできる。まあ、僕だってそういうふうに思うことはあるし。
だからこそ、どうやったら人を感動させられるかというのはある程度わかりきっていて、人を泣かせる小説とか感動させる小説とか、そういうのを書くのは別にむずかしくない。単純な技術上の問題なのだ。
泣けるか、感動できるか、じゃなくて、何によって泣くのか、何によって感動するのか、というところが問題なのだ。
(必ずしも泣かなくても感動しなくてもいいけど、たとえばの話ね)
欽ちゃんが24時間テレビで70kmを「歩ききって」、感動した人もいるらしい。
まあそうだろう。でもさ、こういう風にしたらかなりの人を感動させられるってことは、みんなやる前から判っていて、見る人もわかっていて、予想したとおりに感動したいから見ていたんだよね。
そういうニーズがあるから、そこに商品を提供する、ということを非難することもないと、理屈では思うのだけれど、感動ってそんなにまでして、しなくちゃいけないのかね、と見る人の方にいいたい気分になる。
「欽ちゃんを見てわたしもがんばろうって思った」
て、おいおい、欽ちゃん見なくたって思えよ。(別にそう思わなくてもいいんだけど、とにかく思うきっかけが欽ちゃんかよ)
欽ちゃんくらいがんばっている人って、僕のまわりを見回したら、いくらでもいるから、きっと、欽ちゃんをみて感動している人の周りにだって、いくらでもいるんじゃないかな。
66歳なのに、とか、身障者なのに、とか、そういうオマケのスペックつけなくたって、ちょっと自分の周りを見てみればそれで十分なんじゃないのかなあ。がんばっていないように見えて、けっこうがんばっている人は多いような気がする。
別に欽ちゃんじゃなくて、どんな人生だって、いつかどこかでのっぴきならないことになるものだし、それでも、たいていの人はそこを切り抜けて生き続けていくものだ。
まあ、一日に煙草を何箱も吸っていても、66才で70kmくらいは歩き通せるということが証明されたってことで、いいってことにするか。
愛でほんとに地球が救えるのならいいけど、地球を救うのは愛じゃなくて理性だと思う。
戦争は愛によって引き起こされている。目に見えている人、近くにいる人だけを愛そうとすることこそが、戦争の原因じゃないのか。目の前にいない人のことを考えることのできるために必要なのは、愛じゃなくて理性だ。自分が愛する人を殺した人にも愛する人はいる。
16日午前、中越沖地震が起きた。
夜になって、被災地に水と乾パンが支給されたときのことだ。
テレビが「たったこれだけ」と怒りの声を必死で引っ張り出そうとインタビューしているのに、避難所にいる被災者の人たちは「これだけでもありがたいです」という人ばかりだった。
地震が起きてまだ数時間。道路も寸断されているし、状況把握だって簡単じゃない。
どれだけたいへんな災害なのか、被害にあった人たちがいちばんわかっている。
それなのに、なんとか「こんなに遅くなってたったこれだけ」と「行政への怒り」をムリヤリ引き出そうとするテレビに、僕は怒りを感じましたよ。
新橋駅前で酔っぱらいサラリーマンに政府への不満を言わせるのと同じことをやっているよこいつら、と。
ともすれば新橋では、夕方4時にはすでに焼き鳥屋が満員になる。
そんな町で、背広を着て酔っぱらっている人間は、どう転んでも社会の底辺なんかじゃじゃない。
背広を着て夕方に酒が飲める人はすでに十分恵まれている。
なのに、そういう人の「怒りの声」を引っ張り出して、政府への不満を表明させ、最後に「いつもしわ寄せはわたしたち庶民にくるんですからねえ」なんて言葉で結ぶのは、年収数億円のキャスターだ。
実際以上に人々の不満を煽り、政府はケシカランと被害者面をする意地汚さ。
政府を厳しく監視することは必要だけれど、幸福を感じることを拒絶し、いつも不平不満を垂れていたら、人間は幸福になれない。
そもそも政治というのは、国民の幸福のためにあるのだ。幸福は心の持ち方に依存する。
社会に向かって愚痴をいうより、焼き鳥でビールが飲める幸福を語ろうじゃないか。
ことさらに不平不満を煽るテレビの薄汚さを、呆然とするような厳しい現実の中で、しっかりと自分の力で生き延びようとしている被災地の人の気高さがぶっとばしていた。
薄汚さと気高さの、こんな対比が、ああ人間ってすばらしいと感じさせてくれる。
あえて新潟と、あえて日本人と、いいますまい。
裸で自分の生を活きている人は気高いです。そういう気持ちを忘れたくないと思う。
フランス革命の日だけど、日本では全国台風一色。
水不足は解消だろうけど、あまり被害が出ないといいなあ。
夕方、プールへ。
いつものように小一時間ウォーキング中心。
空いていて気持ちよかった。
テレビのドキュメンタリーに収穫あり。
新しい鉄鋼王ミタルの物語、それから、マラソンの瀬古と中山の物語。
民放は自己崩壊していて、特定の面白さを評価してくれる視聴者だけのために番組作りをして、それ以外の人からどんどん見放されて影響力を失ってきている。自分の努力でわざわざ視聴者を減らしているわけだ。
民放に共鳴できない人たちは、僕のようにテレビを見なくなるか、見るとしてもニュース以外はNHKしか見なくなってきている。(ニュースに関してはNHKだけでは危険すぎる)
そんな深刻なテレビ離れに早く気づかないと、メディアとして、あるいは、ビジネスとしての民間放送の将来は暗いと思う。
短編の第二稿に編集者の赤が入ったものが速達で届いたので、夜はそれに着手。
24日朝の放送は出かけていて見ることができなかったので、帰宅後、深夜の再放送で見た。
著者近影(笑)と経歴がしばらく映し出されたのは、とってもこそばゆいぞ。
内容は、司会・藤沢周(作家)、中江有里(女優・脚本家)の2人と伊佐山ひろ子 (女優)、逢坂剛 (作家)、吉田伸子 (書評家)の5人が『D列車でいこう』をよってたかって批評、というか誉めてくれる番組になっておりました。
ちょっとネタバレもあったけど。(特に逢坂剛さん)
逢坂剛さんが、小さな不満を口にしたとき、拙著を「おすすめの1冊」に選んでくれた吉田伸子さんが、「そこがいいんじゃないですか」といって反論してくれて、その瞬間に中江有里さんがうんうんとうなずく瞬間をカメラがしっかり切り取っていて、それが番組としてのハイライトシーンかな。
「吉田さんは、面白い本を見つけてくる天才ですね」という逢坂剛さんの開口一番がなかなかいいキャッチコピーになってました。
朝の放送から不在の間、複数の人が amazon の売上順位をウォッチしてくれていて、それをまとめてエクセルの表に入力して、「週刊ブックレビューによる amazon の反応」という資料ができたので、編集者にメールで送っておく。
僕はベースが理科系なので、こういうデータを見るのが大好き。
最高位は25日午前0時20分ごろに記録した63位のようです。
「レイモンド・チャンドラー+村上春樹」という超強力コンビと抜きつ抜かれつのデッドヒートを繰り広げていたようすが、数字としてすごく面白かった。
いや、チャンドラーといえば、ハードボイルドの金字塔のような作家だし、村上春樹といえば「村上チルドレン」と呼ばれる一群の作家まで産み出した日本文学界の寵児だし、一時的にせよ、そういう作家の本と売上順位で並ぶなんてのは、デビュー2作目のかけだし作家としては、すごいことであります。(まあ、時間と共に水を空けられることは目に見えてはいるけどさ)
NHK「週刊ブックレビュー」のサイトは こちら
青島幸男が亡くなった。1932年生まれの青島幸男は、僕より22歳年上。
「おとなの漫画」「シャボン玉ホリデー」「スーダラ節」「ハイそれまでよ」「明日があるさ」「お昼のワイドショー」、彼が作品を産み出していた時代に僕の人格形成が行われたようなもので、全部同時代だ。
テレビのテレビらしさを作った人であり、サラリーマンを世間の主役にした時代の申し子でもある。
35歳で参議院に当選したところまで、それはテレビの力を信じた結果でもあった。
野坂昭如とならんで青島幸男は早稲田大学の校風を具現化したような人でもあり、少しだけ上の世代で早稲田大学を謳歌した僕の父親に芯にあるメンタリティにおいてそっくりで、青島を見ていると父親を見ているような気がしていた。
都知事になって彼がやったことも、反骨精神とサラリーマンの視点ではすでに経済も政治もやっていけないという現実離れにおいて、昔の早稲田そのものだった。これも企業に不適合で自分で事業を興して玉砕した父親を彷彿とさせる。
(そこへいくと、慶応の人は、実に現実をちゃんと見ている。福沢諭吉は偉いなあ)
権威に対する「アンチ」が真骨頂だった早稲田の青島がテレビを作った。
いつのまにか、テレビはテレビ自体が権威であり旧勢力になり、「小泉自民党圧勝」をまるで予想できなかったくらいに国民とは離れた存在になって、暴走を続けている。
多数が善良であるという前提のなかで「毒」や「本音」に意味があったのに、世間の毒が平気で表に出て、それを「本音」として肯定することが当たり前になると、暴走に歯止めがかからない。
アンチとして、やってはいけないことを「テレビの中だけで」やって視聴者が溜飲を下げていた時代が終わり、皮肉やイジメの番組が、テレビが権威になった時代には、「テレビでもやっているのだから」となんでも許されると錯覚され、テレビニュースで繰り返し報道される例外的な悪事が、「だれでもやっている」と視聴者に受け取られて、「社会の本当の姿は汚くてずるい人間が得をしている場所だ」とだけ翻訳されて疑われなくなってしまった。 テレビが少数例を取り上げ続けると、人々の心の中で、それが「ふつう」になってしまうのだ。
青島幸男さんには、政治をやらずにずっとテレビを動かしていて欲しかった。
早稲田精神で、ずっとテレビを権威にしないでおいて欲しかった。
僕にとって、青島幸男のマスターピースは、渥美清主演の「泣いてたまるか」のいくつかの作品だ。
青島幸男も岸田今日子も70代半ば。
平均寿命が80年あるからといって、自分が何歳で死ぬのかはわからないから標準的に生きた部類の寿命だろう。
特に長生きしたいわけではないけど、宇宙の真理がどうであろうと、自分のもっている時間は有限なのだなあ。などと当たり前のことを思った。
小説書こう。
10月4日(初日) 新宿・シアター・サンモール
原作・総合プロデュース 神田昌典
脚本・演出 永井寛孝
僕自身、劇団「夢の遊眠社」の創立メンバーであり、芝居を創ってきた経験があるので、演劇一般について作り手側の視点で見てしまうことを、まずはじめにお断りしておきます。
(以下、文中、敬称を略す)
この演劇については、ひとことでいうと「楽しかったが居心地が悪かった」というのが率直なところだ。
この芝居を観て、僕はたくさん笑ったし、楽しかった。だが、反面、観ている間に何度も落ち着かない気持ちになった。
1998年 日本映画
監督 新村良二
製作 円谷粲
プロデューサー 米山紳 関根房江 前島真理奈
原作 家田荘子
脚本 山上梨香
立河宜子(梶井みどり)
升毅(須賀崇之)
かとうあつき(関谷歩美)
中尾彬(大森七郎)
小野みゆき(水島真知子)
たしかにあのころ、家田荘子は時代の寵児だったなあ、と昔を偲びたい気持ちになる映画。
描いている世界がバブルなのに、どこか微妙に上品な仕上がりになっていて、けっこう切ない映画だった。
どういうハコガキで脚本を作っていったか、作り手としてとてもわかりやすい。それは単純だけれど悪いことではない。わかりやすさのなかに「ある視点」があればそれで映画は成立するから。
たぶん、この映画で出色なのは素材としての立河宜子という女優と、彼女の変化を一瞬で表現しているメイクだったと思う。
(メイクの人、タイトルロールで名前を見損なってごめんなさい)
監督: 大島渚
出演: 松田英子, 藤竜也, 殿山泰司
昭和11年の「安部定事件」をあつかった大島渚監督1976年の作品のノーカット版。
GyaOで。
76年の公開当時、安部定事件を扱ったことと過激な性描写で日本公開版ではやたらとカットされていることなどが話題になっっていた。
30年前のことだ。
当時の僕は話題のされ方になんだかうんざりしていたのと、スチールでみる松田英子にあまり興味を引かれなかったということもあって、この映画を観なかった。
で、30年の時を経て観たのだが、これが実に「静かな」名作なのである。
性器を切り取る事件がどうとか、映画に於ける性描写がどうだとか、そういう騒ぎのイメージと、この映画のできあがりはまったく異なる。
破滅を予感しながらそこに敢えて埋もれていく、定と吉蔵。
お互いのすべてを受け入れるという選択は、スクリーンのこちら側にいる人間にとっては、最初から最後まで「痛い」。痛くて痛くて、救い出したい衝動にたびたび駆られる。なぜなら観客の側には、しがらみを持った日常があり、それを背負うこと続けることをよしとする価値判断があるから。
けれど、ふたりはひとりひとりで終焉を予感しながら、互いにはそれを話さず、それぞれに相手を受け入れつづけ、その結果をもすべて受け止め続ける。
この映画は「愛」を「精神」と「肉体」に分けようとしていない。精神と肉体のあいだには区別もなければ序列もない。ただ、目の前の相手をどだけ受け入れるかだけが提示されている。もっといえば、「愛」という言葉に抽象化することすらしていない。
最後、すでに観客が知っている結末に辿り着くそのとき、吉蔵はあたかも天寿を全うする人のように静かに死を受け入れ、定はそれをしずかに見届ける。性器切断、猟奇事件という言葉のもつイメージとしての壮絶さなどまったくそこにはない。あるのは、とても静かで豊かな死なのである。
ああそうか、死は精神と肉体を区別しないから、愛も精神と肉体を区別しないのだな。もし愛こそが生きることを価値づけるものなら、愛はすごく死に似ているし、だからこそ、生と死がすごく近いところにある。
静かな手段で常識を覆すこと。それができる大島渚という人の才能をうらやましく思う。
松田英子が静かでつややかで、これ以外にないという演技をしているのにも驚く。
この映画にはわくわくドキドキするストーリーはない。つまりシナリオによって成立するのではなく、役者の演技とカメラによってはじめて成立する映画だ。それを考えると、松田をキャスティングする「目」に驚く。
もしかしたら逆で、大島は松田を知って「コリーダ」を作ろうと思ったのかもしれない。
(と、かんじるくらいなのだが、実際は松田はオーディションで選ばれている)
GYAOで視聴。
曰く
>>
戦争末期、海軍日本で特攻兵器“回天”の説明をうける予備士官の若者たち。15人いた士官も今や7人となっていた。危険な訓練で命を落とす隊員が出たことで、玉井は自分たちの任務に懐疑的になっている。そんななか、死んだと思われていた村瀬と北村が生還を果たす。わずかな希望を抱く隊員たちだったが、彼らにもやがて出撃命令が下された。それぞれの想いを胸に隊員たちは、潜水艦に搭乗していく…。
>>
監督:松林宗恵
原作:津村敏行
音楽:伊福部昭
出演:岡田英次、木村功、宇津井健、高原駿雄、和田孝
1955年 / 日本
既視感。どこも予想を裏切ることのない、いかにもありそうな特攻隊の映画だけれど、1955年、終戦後10年、作っておくべきタイミングで作った日本映画だと思う。
この映画ができる10年前に、まだ日本は戦争をしていたのであり、この映画は現実のことだった。
同じ長さ、いまから10年前の1996年、僕が会社員を辞めたころだ。10年は短くて長い。
メディアに登場する回数は減ってきたというものの、ヨン様の人気はまだまだ衰えていないらしい。
でも、僕は男なのでヨン様の魅力がよくわからない。
で、知り合いの女性に聞いてみようと思ったのだけれど、これがどうも僕のまわりにはヨン様のファンがまったくいないことがわかった。
女友達は多い方だと思うのだけれど、24才から60才くらいまでの知り合いの女性に聞いてみて、ヨン様が好き、という人が全然いないのだ。
これはどういうわけだろう。
僕のまわりだけ、ちょっと変わった特殊な女性が集まっている?
その可能性もなきにしもあらずだけど、どうも腑に落ちないのであった。
友人の紹介により、お茶の水で、トライベッカ映画祭観客賞の "The Cats of Mirikitani"の内輪の試写会にお邪魔する。
ニューヨークのホームレスで日系アメリカ人の画家 Jimmy Mirikitani を追いかけたドキュメンタリー映画。
戦争中、敵性外国人収容所 Internment Camp に収容された Jimmy と、この映画の監督である Linda Hattendorf の心の交流と、Jimmy から溢れ出る、歴史と人間性が淡々と伝えられる秀作。
広島の原爆で身内を失い、収容所でも家族や友人を失った Jimmy は、ニューヨークの街頭で画を描いて売っているホームレスだった。
9.11のテロをきっかけに、彼は Linda の家に居候する。
Lindaは彼のパスポートを復活させ、Social Security の援助を受けさせようとするが、ひょうひょうと生きている彼は、はじめのうちそれを拒む。
しかし、彼女が生き別れになっていた姉を見つけ出して電話口で話しをさせるなど、彼との静かな交流を通じて、社会/国との書類上の接点をも再生させ、福祉アパートに住まわせるようにうながしていく。
その過程で、Jimmy Mirikitani の魅力がスクリーンのこちらにも伝わってくる。
「10時半には帰ってくると行ったのに帰りが遅いから心配したじゃないか」
と、Jimmy が娘を心配する父親のように Linda に向かって怒る場面が出色。
この種のドキュメンタリーをもし日本のテレビ局がつくったなら、感情を押しつけ価値観を押しつけるナレーションがたくさん入ってしまうだろう。だけれど、このフィルムでは、登場する人物の会話だけで語られている。
たとえば、生き別れの姉と再会したというのに、そのシーンは本編には登場せず、ラストのスタッフロールの背景に出てくるだけなのだ。日本のテレビなら、これぞハイライトシーンという「感動の再会」としてベタベタに語られるにちがいない。
当然、監督 Linda は彼を撮影し始めたときに、彼女なりの「予感」あるいは「予断」を抱いていたはずだ。
が、彼と真摯につきあううちに、Jimmy をきちんと自分の目で再発見し、新たに見つけた彼の魅力を忌憚なく映像に捉えていっている。
彼の背後にある、日米の歴史はあくまでも彼の言葉に留まり、監督によって過度にブーストされることもない。
つまり、被写体とカメラがきわめてフェアな1対1の関係を築いている。
Jimmy の言葉をどう受け止めるかは、スクリーンのこちら側にいる我々に委ねられている。
スそれゆえに、思想や知識ではなく、自然な共感が生まれてくる。
無駄のない74分だ。
(おそらく、編集で、何をとり、何を捨てるか、大きな選択をたくさんしただろうし、すごく苦しんだのではないかと思う)
きわめて個人的な収穫についても併せて書いておく。
すでに書き上げた日系アメリカ人女性ジャーナリストを主人公として、ペルーを舞台にした小説(未刊)で、日系ペルー人の来歴を調べた際、テキサス州にある Crystal City という収容所に行き当たった。その場所は少し特殊なのだが、このフィルムでも少しだけ触れられている。
また、新宿のホームレス、サンフランシスコのダウンタウンのホームレス、を扱った短編も書いたことがある。
ホームレスと、日系外国人、というライフワークの予感のある分野をもっている阿川としては、偶然のこととはいえ、資料的にも大きな収穫があった。
試写終了後、軽いレセプションがあり、この映画の Co-Producer である Masa さんと話しをすることもできた。
会場を辞去した後は、もうひとつのライフワーク「沖縄」にちなんだわけではないが、御茶ノ水駅近くの沖縄料理店で食事をして帰宅。
久しぶりに飲んだ「菊の露」(泡盛)がなつかしい味。
阿川大樹の新刊『D列車でいこう』は こちら
沖縄取材の代わり、という感じで、沖縄の映画ばかり作っている中川陽介監督の作品を3つ続けてみた。
「青い魚」(1998)
「Departure」(2000)
「Fire!」(2002)
カメラを固定して長回しをする。タイプとしてはあまり好みじゃない鈴木清順みたいな映画。でも、鈴木清順が「画をつくっている」とすると、中川陽介は「目が貼りついている」感じがする。空気の中で見つけたフレームを「ほら、こんなのを見つけたよ」と切り取って見せようとしている。
テンポも悪い。ひたすら淡々としている。 映画学校の卒業製作みたいな映画とでもいえばいいか。
実際、井坂聡監督といっしょに見た日本映画学校の卒業製作作品にも、同じ雰囲気をもつものが結構あった。
つまんない映画との共通点がこんなにたくさんあるのに、なんだか魅力的な映画たち。
なんなんだろう、と思ったら、「切ない気持ち」をもつ自分を渇望するための映画のような気がしてきた。
Fire! は渋谷で見ようと思っていたら先週で終わってしまって悔やんでいたところ、Gyao! で放映が始まったので、昨夜、すかさず見た。
僕の好きなコザが舞台。
知っている風景がたくさんあって懐かしかった。
生まれても育っても住んでもいない町で、瞬間、その景色を見て懐かしいと思うのは、シリコンバレーと沖縄コザ。
きっとシリコンバレーが第二の故郷で、コザが第三の故郷なんだと思う。
そして、東京生まれで転勤族の家に育った僕には第一の故郷はない。
執筆中の青春小説の資料として映画「クライベイビー」を観る。
ジョニー・デッブの初期の作品、という説明があるんだけど、あまり映画を観ない僕はジョニー・デップって誰?その人ユーメー?という感じ。(すみません)
それよりも中にちょい役ででてきたパトリシア・ハーストの方が僕にとっては有名人。
映画は、「ウエストサイドストーリー」(=ロミオとジュリエット)と「グリース」と「アメリカングラフィティ」をいっしょにしたような感じで、ストーリー的にはマンガチックなコメディタッチのミュージカル。
映画なんだからこのくらいお馬鹿でもいいんじゃないっていう意味で、いい映画だと思う。
勉強になったのは square という単語。
高級住宅街という意味なんだけど字幕では「山の手」と訳されていた。
この映画の中では不良(非行少年)を意味する juvenile delinquent といういささか堅い言葉をみんながよく使う。
まあ、皮肉なんだけど、そのなかで印象的なセリフは、主人公が祖母からオートバイをプレゼントされたときにいうセリフ。
"I am the happiest juvenile delinquent in Boltimore."
(おれは、ボルチモアでいちばん幸せな不良だぜ)
映画の舞台になっているメリーランド州ボルチモアは、重工業地帯で人口の22.9%が貧困層であり、とくに18歳未満の30.6%が貧困層に属している。(ただし数字は2000年現在のものなので、映画の舞台になっている時代にはもう少し違う数値だろうと思うけれど)
そこで、貧困層の不良と山の手との対立、というのがロミオとジュリエットに於けるモンタギュー家とキャピレット家みたいな対立するふたつのグループというのになり得るわけだ。
そこで山の手のお嬢様が貧困層の不良男子に恋をする。
しかし、見初める場所が公民館での予防接種(種痘かBCGだと思われる)というのがミソで、階層に別れた社会ではふたつの階層が接触する場所は実際にはあまりなく、物語的に出会いをつくらないとストーリーが成立しない。そこで「誰でもが行く場所」として「予防接種」を使っているわけだ。
この予防接種のシーンはタイトルバックでセリフなしで提示されるけれど、そこでふたつの階層が互いに相手に対して感じている不快感というのをすべて表現し尽くしている。荒唐無稽なマンガ風な作りだけれど、このあたりをしっかりつくっているところが、ただ者ではない、という作品。
フランス系女友達に誘われてアンリ・カルティエ=ブレッソンのドキュメンタリ映画を観る。
場所は、渋谷スペイン坂の rise X 。38席しかないミニシアターだ。
淡々とブレッソン自身が写真を見せながら語っていく。
ブレッソンを知りたい人にとってこの加工されない感じの映像は悪くないと思う。とにかく作りすぎていない。作り手というのは往々にして作りすぎるものなので、この視点は評価できる。
一方で、ブレッソンや、周囲の人が語っている内容そのものは、本当にブレッソンの写真の本質に迫っているかどうか、個人的には首を傾げた。というのも、僕も(手すさびだけど)写真を撮るし、いろいろな創作にたずさわってきたけれど、そうした創作者の視点からは、この映画で語られている内容が当たり前すぎて、驚きがなかったからだ。
もっとブレッソンを怒らせたり困らせたりして、そこからもっと奥深くのものを引っ張り出す、というやり方があってもよかったと思う。でないと、どこか「巨匠ブレッソンにお伺いを立て」ている映画のようでもある。カメラも監督もブレッソンという被写体と戦わなかった映画だ。
ただ、冒頭に述べたように、あまりいじらずにカルティエ=ブレッソンが語るに任せる、という手法は、実は受け手としては意味があることなので、被写体と戦わなかったことが、必ずしも悪いことだとはいえない。プレーンな情報源であることもドキュメンタリー映画の役割なのだから。
フランス語の映画は久しぶりに観たなあ。イタリア語も英語も混じっていたけれど。
大学で5年間フランス語を勉強した(はずな)ので、少しはわかるけど少ししかわからない。ちょこっとラジオ講座を聴いただけのイタリア語とあまり変わらないのが情けない。(笑)
(フジテレビで本日さっきまで放送)
台本はとっても雑なんだけど、そんなことどうでもいいや、楽しかったです、僕らの世代には。
当時新品だったはずなのに、放送開始の日にすでにテレビ受像器がが汚れてレトロ調にくすんでいるのはなぜだ、なんてことも、この際、許そう。
テレビがフロンティアだった時代の物語。
小説はいまでもフロンティアだぜ。俺がいる限り。(なんちゃって)
いやあ、恐かった。
電気消してみていたけど、途中で思わず点けてしまいました。(笑)
最後、真田広之が死ぬところははオチがあるのだろうと思って全然恐くなかった。なのに死んじゃった。そうか、怖がらなきゃいけなかったんだ。(笑)
さらに最後の松嶋菜々子、ちゃんと恐いのがよかった。
7年前の映画(撮影は8年前?)だけど、彼女の演技は完成されていますね。大したものです。
原作は本棚にあるけど読んでません。
昔、角川の編集者に「ホラー書きませんか?」といわれたんだけど、理屈っぽいのでどうも、説明が付かないことが書けないキライがあって、でもホラーというのは理屈が通用しないからコワイわけで……ようするに書けないとお断りしちゃいました。
キャラクターは不可思議な理屈の通じない人格は書けます。でも、理屈の通じないストーリーは書けない。 (一応、ミステリー作家ですから)
GYAOで見た初めての映画でした。
コマーシャル入るけどタダというのと、200円ぐらい払うのと、ビミョーですね。
先に見ると決めたものは払ってでも見る。
でも『リング』は無料じゃなかったら見なかったかも。
監督:中田秀夫
原作:鈴木光司
さあて、3時間しか寝てないから、そろそろ寝ましょうかね。
大林宣彦監督。
だめ、最後まで見ることができずに最初の20分みて消去。
観念的でありながら、作り込みがあまりにも雑。
たとえば、主人公が女性と出会うシーン。レンジファインダーのカメラなのに、ピントを合わせようともしないし、ファインダーに指がかかっている。もちろん明確にシャッターを押す、という瞬間も表現されていない。シャッターを押す、という行為を理解していない映像監督なんて信じられない。
片岡義男の原作は、いわゆる片岡義男ワールドができているのだけど、この大林映画は、「太陽の季節」みたいな映画を1986年に撮ろうというただの時代錯誤。71年の「8月の濡れた砂」(藤田敏八監督)の方がずっといいです。
僕は映画のこと、あまり知らないんだけど、大林宣彦って名前はよく聞くので、この人、有名なんでしょ? どうして? 83年の「時をかける少女」はそんなに悪くなかったと思うんだけど。
全米の映画・テレビ脚本家約9500人で組織する米脚本家組合(WGA)は7日までに、歴代の優れた映画脚本101作品を発表し、最優秀脚本として第二次大戦下の仏領モロッコを舞台に揺れ動く男女の愛と勇気を描いた「カサブランカ」(1942年、エプスタイン兄弟/ハワード・コッチ脚本、ハンフリー・ボガート、イングリット・バーグマン主演)を選出した。 (asahi.com)
異論はないです。
それほど映画好きではない僕が、途中から見ても、何度見ても、面白くて釘付けになる。
「The有頂天ホテル」(三谷幸喜)も負けていないと思うけれど。
つぶやきの壺焼きリニューアルにぴったりのタイミングでビッグな(!!!)お知らせです。
『覇権の標的(ターゲット)』が、 Dream Works により映画化されることになりました。
現時点での公開時期は、米国で 2007年10月の予定。
Dream Works による正式な記者発表は
4月1日
10:00 PDT Hotel Wastine St. Francis (San Fransisco, CA)
13:00 EDT Hotel Parthenon (New York, NY)
(上記は同時刻 日本時間では 2日02:00am)
で、同時に行われます。(多分、配役も発表されると思いますが詳細不明)
スピルバーグ監督はどちらかに登場し、二会場はインターネットによって結ばれ、同時中継されるそうです。監督が壇上に登場したときにストーリーにちなんだアトラクションがありますが詳細は内緒。
日本での公開は、国内配給会社と Dream Works とのあいだで交渉中であり、決まり次第、そちらからアナウンスがある予定です。
いやあ、もう、めちゃめちゃうれしいなんてもんじゃないです。
舞い上がってます。
ほんと、今日まで黙ってるのがつらかった~(笑)
( April Fool でした。念のため )