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2013年08月09日

原発事故を経験して二年たった長崎原爆の日に思うこと

 我々日本人は核兵器による被爆という人類唯一の経験をした。
 さらに、地震と津波をきっかけに引き起こされた原子力発電所の事故を経験した。

 原爆による広島長崎での被曝は、多くの人に、長期にわたって健康へ大きな影響をもたらした。
 その影響は日米共同の研究機関によって現在に至るまで調査研究が行われている。
 (放射線影響研究所 最近の年間予算約30億円 など)

 この研究は、「放射線によってこんなに健康に影響が出る」というデータと同時に「このくらいの被曝では影響が出なかった」というデータも、現在までの68年間という長い期間と膨大なサンプル数をもとにわかっている。
 その調査解析は、被爆時年齢区分、爆心地からの距離他による被曝量の見積、などを含む。
 戦争の不幸な結果により、我々は、被曝の、危険なゾーン、グレイゾーン、そこからさらに遥か下の安全ゾーンについて、十分なデータをもって科学的統計的に知ることになった。

 我々は、被曝量や被爆時年齢ごとに「60年後までの期間に人体にどのような影響があるか」について、(理論的にではなく)実証データをもとに相当わかっているのである。
(何故か、低線量、子ども、長期、について「わかっていない」とう誤解が広がっているけれど)

 その知見を活かした上で、次の問題は福島の原発事故によって、それぞれの人の被曝量が、グレイゾーンにあるのか、それよりずっと少ない安全ゾーンにあるかを正しく見積ることだ。

 空間線量、除染のデータ、食品の汚染量、などをを含む、現在までの調査では、幸いほとんどの人が安全ゾーンであることもわかってきた。
 その人たちがしっかりした知識で安心して暮らせるようにすることが重要だ。
 危険領域の被曝量、グレーゾーンの被曝量について、継続的に健康診断を続けて早期の適切な措置を取ることが重要であるのと同時に、安全なのに不安に脅えてQOLの低い暮らしをする人々を減らさなくてはならない。

 我々は核兵器による被爆という経験をした結果、放射能の危険性の程度について、かなり網羅的な調査によるデータを得る機会を持つことになった。
 放射能の危険を知るとともに安全範囲についての知見もきちんと活用して原発事故の被害を適切に受け止めたい。

 それが原爆の体験を今に活かす道だと思う。

【念のため追記】
 ある値以下の被曝による危険が少ないことは、なんら東電や政府の責任が小さいことを意味しない。安全な人を危険だと水増ししなくても、事故は重大であり、事故はまだ続いていて、その責任も重大である。

2013年01月22日

桜宮高校のこと

 桜宮高校の体育科の入試中止について、「受験生が困る」「進路が狭められる」「橋下市長の横暴だ」という意見を聞くことが多い。

 確かに桜宮高校への入学を志望していた生徒にとっては一大事だ。

 けれど、入試をするには「入るに足る学校である」ことが最低条件だ。
「入らない方がいい学校」のなら、志望者を受け入れてはいけない。
「受験生がかわいそう」論はその点が抜け落ちているように思う。

 部活顧問の暴力と、部活で冷遇されることで、アスリートとしての進路に大きな影響があること、それを苦にして自殺をした主将がいた。

 顔が腫れ上がるほど30-40発殴るという暴力が「強くなるために必要な体罰」であるはずはない。
 であるのに、この高校では黙認されてきた。

 校長も教師も保護者も、全員、そうした事実を知りながら黙認してきた。
 バスケ部が強く、顧問が18年のあいだ対外試合での実績があるということにより、犯罪が黙認されてきたのだ。
 一人の暴力教師がいた、ということではなく、暴力を誰も止めない学校だった。

 部活が強くなるなら、暴力教師が生徒を殴ってもよい、と皆が考えていた。
 あるいは、そうした実績がある故に、おかしいと思ってもそれを正せない人たちの集まりだった。

 教育とは「何が正しいか」を教える場だ。
 同時に、「間違っているときはそれを正す」ことを学ぶ場だ。
 対立するものの中から、適切な優先度を判断する能力を学ぶ場だ。

 それは、スポーツで活躍することよりも遥かに重要な、人生の原則だと僕は思う。

 しかし、この学校では、その大原則が教えられることなく、おかしなことが行われているのを知りながら、ずっとそれを集団で許してきた。

 一人の暴力教師の犯罪ではなく、その犯罪を黙認することをよしとする学校だった。

 入試を実施し、新入生が入ってくるまでに、この学校があるべき姿に変わることができるとは思えない。
「先生は悪くない」「とにかく入学したい生徒の希望を叶えるべきだ」
 そういう声がいまだに公然と聞かれる場所は、教育の場所としてふさわしくない。

 本人が「希望している」からといて、教育の場としてふさわしくない学校に新たな生徒を受け入れるべきだろうか。
 受験生の意志を尊重するためには、受験生が正確な情報から冷静に判断できることが前提となる。
 しかし、正確な情報はまだない。学校の内情を十分知ることもできない。
 有名校のバスケット部に入ることに目が眩んだ中学生とその親に、この状況下で冷静な判断などはできない。
 冷静な判断ができない状態の中学生の「本人の意志」は、学校が危険で教育にふさわしい場所にもどることができるかどうかわからない状況で、それだけ尊重すべきなのだろうか。

 そうした「本人の希望」を理由に適切が教育が行われる確証のない場所に中学からの受験生を受け入れることは、とても無責任なことだと思う。

 入試中止は、不祥事を起こした学校への「罰則」などではなく、十分な教育ができない学校へ新たな生徒を受け入れない「防波堤」だ。

2012年08月16日

イタリア生活、よいところ悪いところ

イタリア(ベネチア)にほぼ3ヶ月住んでみて、気づいた所をまとめて見た。

【イタリアの生活のよいところ】

 食材がだいたい日本の値段の4分の1、種類も豊富で美味しい。
 ワインが1リットル200円くらい。
 食材などは量り売りなので無駄が出ない。
 包装が簡単なのでゴミがあまり出ない。
 個人商店が多く物を買うのが楽しい。
 広場があって地域のコミュニティがある。
 近所の音や声がよく聞こえる。
 電話やネットも安い。
 文化や芸術も天こ盛り、値段も安い。
 人々がのんびりしている。
 暮らし方の種類がいろいろで、他人に干渉しない。

 完璧なサービスを仕事を期待するあまりに、そうでないことに苛立ったり、他人の出来の悪さをあげつらったり、そういうピリピリした空気がない。
 ちょうどよい加減にいい加減。

【イタリア生活のよくない(?)ところ】

 壊れたものはなかなか治らない。
 色々いい加減。
 いちいち長い行列ができる。
 列が短いからといって時間がかからないかどうかはわからない。
 (自分の番が来たら必要な時間をたっぷりとりたいから、窓口で長く時間を使う人がいても互いに許す)
 近所の音や声がよく聞こえる。
 (迷惑をかけないように息をひそめて暮らすのではなく、お互いに迷惑かけ合い許し合う暮らし)
 商店の営業時間がまちまちで昼休みもあるので、個別に営業時間を知っていないと買い物ができない。
 夜中には何も買えない。(コンビニはない)

 公的機関の情報がしばしば間違っている。
 掲示や公式サイトではなくいちいち人を辿って確かめていかないと正確な情報、必要な情報が手に入らない。
 (「わかんなかったら聞けよ」方式:情報の基本は口伝?)
 (現場にマニュアルもないから、訊いて担当者がわからないとき、担当者は知っている誰かに順番に聞いて回る。だから窓口でやたら時間がかかったりする)
 (はなからものごとを文書で周知徹底しようと思っていないみたい)

 お店も話をしないと欲しい物が出てこない。
 (まさかないだろうと思って訊いてみると、びっくり、奥から出てきたりする)

 でも、すべて最初からそういうものだと思っていれば、特に問題でもないから、悪いところはとりたててないともいえる。
 ようするに、ものごとを最短距離で効率的にやろう、などという野望を持たなければ、何も問題はない。

「完璧」はいろいろ高くつくから、完璧を目指そうと思っていない社会。
「いい加減」といってもずるいのではなくて、「お互いに不十分」なのを許し合っているからフェア。
(こっちはちゃんとしているんだから、そっちもちゃんとしろ、と迫ったりしない)
 その結果として、とても暮らしやすい社会ができている。


ちなみに、
 電気料金は日本の1.5倍くらい。
 一人当たりGDPは日本の7割くらい。

 原発をやめて高い電気料金になって、GDPが7割くらいまで下がった日本の暮らしを考えたとき、十分、幸福に暮らせるんだよ、というロールモデルになっているかもしれない。(もちろんそう簡単には比較できないのだけれど)

 どっちにしろ、いまの日本にいるよりずっと暮らしやすい。
 できれば日本に帰りたくない。

2011年08月31日

名取市閖上と川内村

 今回の旅行で、僕は、宮城県名取市閖上と福島県双葉郡川内村の二つの対照的な被災地を訪ねた。

 川内村は福島第一原子力発電所30km圏の中でも放射線量の低い場所だ。
 地震で亡くなった人はいないけれど、住民の9割以上が避難してしまっている。放射能は低くても、仕事もできないし、生活物資も不自由で、ひどく暮らしにくくなっているのだ。避難しないといろいろなお金ももらえなかったりもするらしい。

 村はほとんどの建物の窓は閉め切られ、カーテンも閉まっている。ゴーストタウンでみたいな町に、点々と人のいる場所がある。人のいる家があるとほっとする。

 残っている人は必死に今までと同じ暮らしをしようとしているけれど、家も壊れず、自分の周辺に何の目に見える変化もないけれど、目に見えない放射能によって、人がいなくなり、その結果、暮らしが変わってしまった。
 おそらく将来も変わってしまっている。

 あたりは岩盤の上にあり、いろいろな場所を見せてもらったけど、ほんとに地震の被害は少ない。横浜と大して変わらないといってもいいくらいだ。であるのに明らかに「被害」を被っている。

 一方の名取市は、人口の一割の人が亡くなり、家も店も会社もなくなってしまった。町は跡形もなく消えてしまった。
 見かけ上、何も変わっていない川内村とは対照的だ。

「津波の人は、3月11日で災害が終わっているけれど、福島はいまも災害が続いている」
 福島の人がいうのを聞いた。

 確かに、閖上ではほとんどの土地はから瓦礫が取り除かれ、半壊の家屋は解体され、新たに整地されて更地になっている。

 家も作品もすべてなくしてしまった名取の icoさんは、新しい絵を描き始めているけれど、川内村の人は何もできずにいる。

 川内村では、ほとんど何も壊れていないのに、自分の努力で災害から脱出できるという希望がもてない。希望をもつとしたら、村を捨てて別の土地で人生をやり直す決心をしなくてはならない。

 どちらの災害も大変なことであり、災害の程度を比較することは無意味だけれど、原子力発電所の事故という災害が、いままでの種類の災害とはちがった性格を持っていることだけは確かだ。

2011年04月22日

反原発の敗北から

 原発の事故で多くの人の健康と心と財産が脅かされている。

 いままで、僕は原子力発電所を安全だと信じることが一度もできなかった。
 科学を学んだものとして、安全であればありがたいというわずかな期待を込めながら、いろいろ調べてきた。
 原子力を推進している機関に正式な質問状を出して回答をもらったりしても、やはり危険であるという結論は変わらなかった。

 何十年と危険だと思っていたのに、ついに大きな被害を出してしまった。
 結果的に、僕にとっていまの事態は「反原発運動の敗北」である。

 なぜ原子力発電所の建設と運用を止めることができなかったのか。

 地震が起きた日から、ずっと考えてきた。
 原発に反対する人の意見を毎日大量に見たり聞いたり読んだりしてきた。
 世の中でこれほど多くの人が危険について指摘し、運動をしてきたというのに、なぜ、原子力発電所がこれほどたくさんできてしまったのか、それを改めて考え続けた。

 当然ながら、原子力発電所は「エネルギーが大量に必要である」という前提から始まっている。
 その前提を疑うことなく、だから原子力発電所は必要なのだと言われ続け、その前提を崩すことができなかった。
 炭酸ガス排出がよくないというもう一つの前提がそれを補強した。
 そして、他の発電手段が技術的に、あるいは、経済的に不十分であるという前提が加えられた。
 原子力発電所は安全である、という絶対的な前提を基礎にして、推進されてきた。

改めて前提を並べてみよう。

1)電気エネルギーが大量に必要である
2)火力発電は炭酸ガスを排出することで環境を破壊する
  (石油石炭天然ガス資源の国際依存というリスクも存在する)
3)太陽光、風力、潮汐、地熱などによる発電は技術的に未熟で経済的にも成立しない
4)原子力発電は安全でクリーンである

 今回の事故によって、4)が成立しないことは明らかになった。
 仮に今回の事故を教訓に改善が為されたとしても、それで万全であると言い切ることは不可能だと僕は考えている。
 どんな事態を想定したところで、人の創造力は経験以上には膨らまず、原発事故の被害の及ぶ規模や年月からいって、経験したときにはもう後の祭りだ。
 想定できる人為的ミスについても同様だ。

 しかし、時間が経てば異なる見解も表明されるようになり、ふたたび原子力発電所の建設を推進しようという動きはでるだろう。

 絶対安全などということはあり得ないと考えるし、そもそも危険因子は自然災害や偶発的な事故だけでなく、テロや戦争など意図的な攻撃の標的となることを考えれば、安全であるはずがない。

 ミサイルや自爆航空機の衝突も十分あり得る。
 原子力発電所作業員や制御システムを運用する人間が故意に事故を起こそうとする可能性も否定できない。
 少数の悪意をすべて予測し、すべてに対策を取ることはそもそも不可能だ。

 そのような危惧は、新しいものではなく、ずっと表明され続けてきた。
 であるのに、原子力発電所は作られた。

 その事実を前提に考えると、安全性の議論とは別に、上記の、1-3をきとんと問い直さなくてはならない。

 安全であるという前提以外の、そもそもの原子力発電所建設の前提である1-3について、長期間、すべて問い直しつづけて、いま僕自身は、この前提自体があやまっていると考えている。
 これについては、時間を作って別の機会にできるだけきちんと述べたいと思う。

 それはそれとして、1-4のすべての前提が否定され、日本中にどれだけ原子力発電所建設反対の人が多かったとしても、我が国の社会システムにおいては、発電所を作りたいと思う少数の人が原発立地の少数の人と合意しさえすれば、原子力発電所の建設が可能なのである。
 あらゆる原子力発電所は、そのようなシステムの反映として建設されている。

 原子力発電所の建設に反対し、本当に建設を止めるためには、この点に注目しなければならない。

 いままで、僕を含め、原子力発電に反対する人は、主として建設の主体である電力会社や政府に対して議論を挑んできた。運動家たちの反対運動のターゲットも、電力会社や政府だった。
 しかし、たとえ彼らを論破しても原子力発電所は止まらない。
 実は原発を推進する意志を持つ人たちにとっては、反対運動をそこそこに受け流して、建設地とだけ話をすればよかったのだから。

 建設地の人たちが一枚岩で両手を挙げて賛成してきたわけではないことも知っている。原発の事故の責任が建設地の周辺の人々にあると責めるつもりもない。

 福島を始めとする原発立地には、その地域ごとの事情があり、結果として原発建設を受け入れる決断をする事情があった。
 つきつめれば経済の問題だ。
 雇用、税金、補助金、交付金、その他の通常の地元の経済、そうしたものに、原子力発電所を受け入れようとする本当の要因があった。

 原子力発電は一世代で背負うことができないほどに危険であり、やめなければならないと僕は思う。

 今後も引き続き、原発の建設や運用を阻止するためには、立地地域のそうした事情を原子力発電所以外の手段で解決する答を用意しなければならない。

 そうでなければ、日本のさまざまな地域で「背に腹は代えられぬ」と考える人たちがこれからも出るだろう。建設したい側の人たちは、その人たちにアプローチしてなんとか原子力発電所を動かそうとするだろう。

 以前も、現在も、多くの反原発の人がしているように、電力会社や政府に向けてだけ反原発運動をしても、原発は阻止できない。

 原子力発電に反対する人は、僕自身も含め、そのことを肝に銘じなければならないと思う。

 

2011年03月24日

国難

 水道の水に「乳児が飲むのに不適」という放射性ヨウ素が検出された。

 乳児がいない人が買い占めに走ると、乳児が飲む水がなくなって彼らを被爆させてしまう、という風に考えない人が、ごく一部とはいえけっこうな数いるのだということがあからさまになって、暗い気持ちになる。

 僕はずっと原発に反対してきたし、先の選挙で民主党に投票していないし、そもそも政治的権力がウソやごまかしに満ちているということも知っている。
 だけど、いまは政府の批判はしない。

 若い人はともかく、56歳まで選挙権を持って生きてきて、こういう国になっていることに、僕は責任を感じている。
 僕の望んだ政府であったことが一度もなくても、民主主義の中に生きている僕が、56年かけてこんな国しか作ることができなかったのは、紛れもなく僕自身の責任でもあるのだ。
 僕だけの責任ではないにしても。

 たとえ、政府の発表する放射線量がウソで、その結果、僕が被爆して命を縮めたとしても、僕はそれを自分の為したことの結果として受け入れる。
 (むろん、僕自身の判断がきとんとした根拠をもってできれば、それに従って行動するけれど)

 日本が落ち着きを取り戻したら、この国の政府を批判もするし、どうしてこういう国になってしまったのか、多くの人と話をしながら考えていきたいと思う。

 けれど、いま、政府の批判はしない。
(たぶん、愚痴は言うと思うけど(笑))

 むしろ、どうしたらいいのか、多くの人の語ることに耳を傾け、時に意見を述べ、いまでなければ考えることのできないことを考え、自分よりも過酷な人生を送っている人のために何ができるか考え、そして行動したいと思う。

 自分にはまるで責任がないと被害者面をして、あるいはまるで第三者のように、声高に批判を述べるだけの人を、いったん、遠ざけて見てみる。

 日本は民主主義国家だ。
 日本国政府は日本国民すべてが、選び、雇い入れた、僕(しもべ)だ。
 使用人がしでかしたことは雇い主の責任だ。
 日本で、選挙権を持っている人は、誰ひとり、その責任から逃れることはできない。
 いま、政府をどれだけ批判しようと、誰ひとり、免責にはならないのだ。

 この国のオーナーは国民である。
 すべての問題は我々自身の中にある。

 だから、これからもずっと、考え続ける。僕なりのやり方で行動しつづける。

2011年02月08日

大相撲八百長事件

 国の方では大相撲を国技とする規定はない。

 国技館で開催することであたかも国技であるかのようにうまくミスディレクションに成功しているのだけど、そのロジックでいくとプロレス各団体も両国国技館で興行を行っているからみんな国技なんじゃないか。

 と、ツイッターで書いたら「ロボコンもやってる」と教えてもらった。ロボコンなら胸を張って国技にしたいよね。

 僕は相撲を見るのが好きだ。スピードと迫力があって面白いからね。
 八百長があろうとなかろうと、結果として面白い。
 大相撲は興行だから、僕はそれでかまわないと思う。

 土俵は社会的公正さという正義を実現する場所ではなく、見ている人を楽しませる場所だ。

 過去の事件を振り返ってみると、大相撲が八百長を続けてきたことはほとんど明らかなことだ。
 八百長なのにこんなに面白いのは、力士が鍛練を積んで、強さとスピードを身につけているからだ。
 それはダンサーや役者がフィクションを演じるために鍛練を重ねているのと同じことだ。

 八百長をやっているのを承知で僕は相撲が好きだ。
 でも、インチキで薄っぺらな伝統とか品格だとかを口にする相撲協会は大嫌いだ。
 彼らが日本の伝統や品格を語ると日本が汚れるような気がする。

 日本の伝統は相撲協会が標榜しているものよりも何百倍も素晴らしい。

世の中、みんなが思うほど悪くない

 実際は減っているのに「少年非行は増えている」と回答する人が7割いるという。
 こういう基本的事実関係を正しく伝えていないマスメディアは責任を感じて欲しいな。

 世の中はみんなが思うほど悪くない。
 犯罪は減っている。
 ずるいことをする人は少数だ。
 みんな真面目に胸を張って生きている。
 テレビや新聞はそれを伝えない。

「犬が人間を噛んでもニュースにならない、人間が犬を噛んだらニュースになる」と言われていた。
 でも、犬が人間を噛むニュースがまったく流れないと、人々は犬が人間を噛むことを忘れてしまうのだ。

 ほとんどの人は正直で善良なのに、世の中悪い奴ばかりで、正直者は馬鹿を見る、と少なからぬ人が思いこんでいないか。

 それはメディアのせいだ。

 だから僕は、善良な人が真っ当に生きて成功していく物語を書く。

2011年01月11日

伊達直人ブーム

 伊達直人(タイガーマスク)を名乗るプレゼントに端を発して、矢吹丈(あしたのジョー)とか、桃太郎とか、いろいろな名前で匿名のプレゼントをする人が続出している。

 だれでも参加できる参加型の寄付行為だ。

 美談の主人公になる、という目的のために人のためになることをする人がいるのは大歓迎。

 しない善よりする偽善。

 派手好きや目立ちたがりの善人だっているだろうし。
 だいたい善人は地味で控えめだなどという法則性はないわけで。

 そう、プレゼントを贈る側も、レッツエンジョイ!

(追記)

 所得再配分は国家の制度によってなされるべきとの意見があった。

 それはそのとおりだけど、まず寄付行為というのは基本的に「贈る人の心の幸福」のためになされるわけで、そこに納税では得られない幸福がある。

 みな、ささやかな幸福を楽しんでいるのだ。

2010年09月24日

黄金町新作落語のワークショップ

 午後6時半、黄金町にちなんだ新作落語を作ろうというプロジェクトのワークショップ。

 金原亭馬吉さんと、アーチストの室津文枝さん、初音町黄金町日ノ出町の地元の人たちと。
 終戦から現在に至るまでの「町の戦後史」を率直に語ってもらった。

 さあて、基本的に重い話題なので、これを「落語」に落とし込むにはかなりの腕力が要求される。
 物語の作り手としては大きなチャレンジであり、だからこそ面白そうである。(でも、めちゃめちゃむずかしい)

 それはそれとして、阿川大樹に対して心を開いて町の負の歴史までもハナしてくれて、僕がそこまで町の人に受け入れてもらっているのだと感じられたのが、ちょっとうれしかった。

2010年08月31日

Amazon Kindle がやってきた

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 8月30日、はるばるアメリカから kindle が届く。

 kindle を触るのは初めてではないけれど、改めて、e-ink の読みやすさに感動する。
 コントラストも素晴らしいし、文字の大きさが自由に変えられるのも助かる。
 アメリカで kindle の利用者が50代60代が中心であるというのも納得だ。

 手始めに The Los Angeles Times, The Mainichi Daily News を講読してみる。
 パソコンで講読を申し込むと、勝手に kindle に届く。
(もちろん kindle から買うこともできる)

 ネットもパソコンも意識する必要のない仕組みが素晴らしい。

 仏英辞典を購入。これも自動的にダウンロードされる。
 これでフランス語の本を読むときも、辞書引きが簡単になる。

 電子書籍端末として、読みやすさ、購入の容易さ、バッテリーの保ち、など、システムとハードウエア両面で、すばらしい作り込みだ。
 日本で電子書籍の議論をするときに、この amazon の仕組みは、到達すべき最低限の基準として考えていくべきだと思う。

 Amazon Kindle を基準に考えたとき、日本語入力、縦書き、ルビ、など日本固有の解決すべき課題はある。

 それらはそれらとして解決するとして、そのあとにできる、読むときの端末の見やすさ、使い勝手、本に出会う場所としての電子書店の品揃えや使い勝手、買うときの決済システム、など、それぞれの在り方は、amazon の利便性を下回るのではだめだ。

 このような優れたすでにお手本があるのだから、日本の出版業界には、早く日本語の書籍のファイル形式やオーサリングシステムを確立して、少なくとも amazon を下回らない使い勝手を提供してもらわないと困る。

 そもそも文字だけの本に関しては、縦書き、ルビ、など、すでに技術的な問題は青空文庫などで解決済みであるはずだ。
 時代は「どれだけ人と金をかけてやる気を出すかどうか」という実行の段階に来ている。

 kindle では、カラー写真や映像は取り扱えない。
 しかし、年間8万タイトルも発行されている日本の書籍の多くは文字だけの書籍であるはずだ。
 電子読書端末がソフトウエアでアップグレードできる性格のものであることを考えれば、それらの対応は後からでもできる。
 大事なことは、メインストリームである文字だけの電子書籍を、どれだけ早く十分な品揃えで、きちんと流通に載せていくことができるか、だろう。

 文字だけの書籍でインフラが揃っていき、市場が立ち上がっていけば、そこに、あとから雑誌やマルチメディアコンテンツを載せることはいつだって可能だ。

「電子」なんだから、あとからアップデートすればいいのだ。

 早くキンドル(または同様のデバイス)で日本の本をどんどん読みたい。

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さっそく100円ショップで買ってきたポーチがぴったりサイズ

2010年08月06日

エノラゲイの乗組員

論評せず、まず、見る聞く。
そしてずっとずっと考える。

少なくとも彼を非難するのは正しくない。
戦争では、勝者も被害者である。

生存する最後のエノラゲイ乗組員へのインタビュー(英語)


2010年06月10日

推理作家、国政を語る

 大学の次に向かうのは、横浜元町。
 午後8時少し前、小説家の山口芳宏さんと石川町駅で落ち合い、駅近くの沖縄料理店で飲み始める。

 主な話題は、税制を中心とした国政の枠組みについて。
 山口さんは、この議論をするために、財源を明確にするためのデータと、政策としての選択肢をまとめたメモを印刷してもってくる念の入れよう。(笑)
 僕はこういう話は大好きなので、ほぼ4時間、二人で国の政策のオプションと、全体的枠組みについて議論した。

 こうすれば50兆円が確保できるから……、みたいな話を居酒屋で延々4時間やる。
 割り勘で4400円くらいの勘定だったところ、太っ腹の山口さんは、「僕の方がたくさん飲んだから」と4000円にまけてくれた。(笑)
 推理作家の話は、大きくて細かい。

 午前0時過ぎ、店の前で別れ、帰りは元町中華街駅から帰宅。

2010年05月13日

孫正義vs佐々木俊尚 徹底討論@ustream

 午前中、珍しく家の電話が鳴る。
 月曜日に行った内科の井上冬彦からで、検査の結果を教えてくれる電話だった。
 1月の検診で出ていた肝臓関係の検査値や血糖値は正常に戻っていた。中性脂肪とコレステロールはやや高い。
 何はともあれ、悪い方に坂を転げ降りてはいないようだ。

 少し遠回りをしながら徒歩で仕事場へ出る。
 あまり調子が上がらず、マンションの理事会の仕事とか、そのほかメールの返事を書いたり。

 午後8時から午前1時まで5時間、事務的なことをしながらustream で、孫正義x佐々木俊尚の対談を聞く(見る?)。
 エンドレスでとことん議論しましょう、という設定は、とてもテレビではできない。こういう手を加えない一次情報こそが面白い。
 それにしても、自分の理想と能力とで、社会を変えていこうという志のある人は素敵だ。

 そんなわけで、帰宅は午前2時過ぎになった。

2010年05月03日

国語力・ディバイド

 昨日、プリンターのトナーが切れた。

 買ってからちょうど一年。
 最初に入っていたトナーは容量が少なくて1000枚しか刷れないのだそうで、そういえば、紙の消費からいって、1500枚弱くらい印刷している。

 昨日の午後5時過ぎに amazon で注文したら、今日の昼前にはもう届いた。
 便利な世の中だ。

 いまは、食べ物でも、家具でも、なんでも通販で買える。
 だから、ほんとうは年寄りこそ、パソコンを使うべきなのだ。

 使っていない人はなかなか信じられないみたいだけど、人とのつきあいも、パソコンがあれば対面よりもむしろ深いつきあいができる。

 どんなに仲がいい友人がいたとしても、ふつう、毎日会うことはできない。病気になったり足が悪くなったり離れていたりすればなおさらだ。

 ところが、毎日、互いの近況がわかっていて、驚いたことうれしかったこと怒っていること、そんなことを共有している人が、僕には何十人もいる。
 パソコン通信を始めた1986年くらいからだから、「滅多に会わないけど、お互いの日常生活や家族のことをすごく詳しく知っている20年来の友人」というのがたくさんいるのだ。

 tama
 たまに近況を聞くんじゃない。毎日毎日、そうしてつきあっているのだ。

 その間に、結婚したり離婚したり子供ができたり病気になったり元気になったり息子や娘が結婚したり、喜怒哀楽を共有している。
 職場の友達より、学生時代の友達より、もしかしたら家族より、親しくしている。
 たまに結婚式に呼ばれたり、結婚式の司会をしたり、温泉に集まって一緒に遊んだり、いろいろな形で直接会うこともあるけど、基本は電子のつながりだ。

 そんな仲間たちも20年前より20歳年取っている。
 でも、このまま「独居老人」になったとしても、全然、孤独じゃないと思う。

 高齢化社会になっている。
 高齢者はパソコンが苦手、なんて、高齢者自身も周囲も決めつけないで、パソコンとインターネットが使えるかどうかで、日常生活の質がまったく違うってことを理解してくれたらいいと思う。
 エンジニアだった僕は、心からそう願っている。

 ただ、その先、「文章で何かを伝える」ことができるかどうかが問われるのは確かだ。
 パソコンは、少なくとも運転免許を取るほどの努力をすれば、誰にだって使えるようになるけれど、自分の思いや考えを文章で伝えることができない人がその能力をつけるのはは簡単ではないかもしれない。

 だから問題は「デジタル・ディバイド」ではなく「国語力・ディバイド」なのかもしれない。

2010年03月23日

リアル探偵ごっこ

 午後4時過ぎ、遅いランチを食べた帰りのことだ。

 途中に通りかかった路地の奥。
 風俗店の外に女性が一人で立っていた。
 あたりは風俗店の密集地。
 女性が通り過ぎることはありえるが、風俗店の外に立っているのは、いくつかの特殊なケースに限られる。

〈彼女は、中から出てくる人間を待っている〉
〈出てくるのはおそらく男で、いまなにがしかの料金を払っているのではないか〉

 仮説を立てた推理作家は一旦通り過ぎ、電話をかける振りをして立ち止まる。

 さっきの女性が、推理作家を追い越していく。
 思った通り、若い男性と一緒だ。

 推理作家は50mほど間を空けて尾行をはじめる。
 前に某業界風の男性がやはり同じルートをたどっている。

〈もしかしたら彼はガードについているのかもしれない〉

 商店街へ出たところで、急に腕を組む。言葉を交わしながら、少し進んで今度は手を繋ぐ。
 それ以降、一見したところ、仲のよいカップルに見える。

 カップルは、商店街をまたいで次の通りを左に曲がる。

〈やっぱり〉

 100mほど先に、ラブホテルがある。
 その前まで来て、その男女は女性がリードするかたちでホテルに入った。
 業界風の男はそのままホテルの前を通り過ぎ、推理作家は手頃な路地を曲がってその場から離れた。

 恋人同士なら、昼下がり、風俗店から出てそのすぐ近くのラブホテルには入らない。

2010年03月17日

「いすみ鉄道」と『D列車でいこう』

 千葉県にある「いすみ鉄道」が自腹で700万円の研修費を払って運転士になりたい人を募集している。

 3年前に「D列車でいこう」(徳間書店)に書いたことが現実に起きてきている。


     いすみ鉄道の記事(毎日新聞)
 
     『D列車でいこう』(徳間書店)のお求めは こちらから

2009年11月15日

Google Books から日本は除外。またガラパゴス化

 google 書籍電子化が、日本を除外することになってしまった。

 日本文芸家協会は反対をしていたみたいだけど、僕は賛成だった。
 google で電子化してくれて、売れたら63%印税をくれる、という条件だ。
 拒否したければ、拒否できる。
 ただし、期限までに拒否しなければ、了解したとみなす。

 最後の一行は、たしかに、一方的なやり方だけど、悪い条件じゃない。
 本来、出版社が横断的にやるべきことを、google がやってくれている。

 本が売れないなら、電子書籍にして絶版なしにしたほうが、みんな幸せで絶対に儲かる。なのに、反対する出版人がいる。
 わけがわからない。

 すでに絶版になっている本も、読めるようになる。
 読者も著者も、みんなハッピーな話だ。
 
 こうやって日本はまたガラパゴス化の道を歩み、構造不況の出版界は新しいビジネスチャンスをみすみす失ってしまった。

2009年11月12日

座りんぼう

「立ちん坊」といえば、街角に立っている娼婦のことである。
 阿川のスタジオの前の大岡川を渡ってすぐの若葉町あたりには、日によってかなりの「立ちん坊」がいるのだけど、先日、見かけたのは座りんぼう。

「オニイサン、一万円。オマンコもできるよ」
 地べたにしゃがんだまま、こっちまで聞こえる大きな声で道行く人に話しかけている。
 周囲に聞こえる大声で誘われたら恥ずかしくて「客」になりにくいよなあ。
 一万円払って彼女と何かしたいかなあ。
 あんな大きな声で商売して、警察に捕まらないのかなあ。
 まあ、人それぞれってことですね。

 川のこっち側も、野毛に向かっていくと小規模なホテル街があって、そのあたりのごく狭い一角に、女装の男娼が立っている。
 黒いゴシック系ロングドレスで太っている人。
 華奢で、必ず黒いストッキングを履いている人。
 この二人はよくいるんだけど、このあいだは、毛糸の帽子を被った「普段着のシャンソン歌手」風の長身の人。
 そういえば、ホモセクシュアルと言えばフランスは本場だし。
 まあ、人それぞれってことですね。

2009年06月21日

職業としての小説家

 小説家という職業がビジネスモデルとしてどんなものか、意外と知られていない。

 売れっ子作家は必ず忙しいけれど、その逆は成立しなくて、忙しい作家が売れっ子だということにはならない。(阿川が忙しいのがまさにそのよい例だ)

 仮に毎日毎日午前9時から午後8時くらいまで働いたとして、書き下ろしの原稿料や初版印税だけでは、相当がんばっても売上500万円を超えるのは難しい。
 会社員と違って、そこから経費を引いたのが「年収」になるわけなので、手取り収入は、まずまず成功している人で大卒初任給程度。
 職種として考えたとき、サラリーマン以上に稼ぐのはかなり大変なことだ。

 単行本が文庫化されたり、増刷がかかるようになって、(つまり、新しく書かずに、以前書いたものから再び印税が入ってくるようになって)初めて「労働時間に見合った」収入になるという感じ。

 法律で定められた神奈川県の最低賃金は766円だけれど、小説家の時給って、計算してみると、それよりも遥かに安い。
(経費を控除してしまうと、たぶん、時給100円とか200円)

 ところが、ある日突然ベストセラーになると、売上200万円のときと経費は同じで売上が数億円になったりする。
 忙しくないと生活できる最低レベルにならなくて、しかし、そこから先、労働時間や忙しさと収入はほとんど無関係。同じ労働時間でも、人によって収入が100倍はちがう、というそういう商売です。

 例えるならプロ野球選手あたりが一番近い。
 日本の二軍の選手も大リーグのスター選手も、働く時間は変わらないけど、年間収入は200万円から20億円くらい差がある。

 似ているのは当然で、どちらも労働時間とは関係なく、身体ひとつで生み出せる経済的価値で収入が決まる仕事だから。

2009年03月12日

二輪ETC狂騒曲

(二輪ETC関連リンクや検索からいらっしゃった方、小説家・阿川大樹のサイトへようこそ)

 意外に報道されていないけれど、すごいことになっている。
 バイク用のETCの巨大な特需が起きているのだ。

 バイクに乗るのは楽しいけれど、最大のストレスは、雨に降られることでも寒さでもなく、有料道路の料金所に並ぶことだ。

 料金所でバイクを止め、グローブを外し、通行券を出して係員に渡し、ポケットを探して、お金を出し、おつりと領収書を受け取り、ポケットやバッグにしまい、再びグローブをして、ギアを入れ、走り出す。
 自動車と比較して軽く二倍は時間がかかる。早くすませようとあわてて地面にグローブを落としたりすればさらに時間がかかる。
 後ろに続いたドライバーの「ちぇ、早くしろよ」という舌打ちが聞こえてくるようだ。この針のむしろに座るような時間がいやなのだ。

 バイクこそ、ETCの効果が大きい。料金割引なんか無くても、ETCにしたいと切に思うわけだ。
 ところが、自動車のETCが数千円とか時には無料で取りつけられるのに対して、二輪用はもともと車載機の価格が高く、しかも、取りつけ料金も高い。実際の出費は機種によって2万5千円から5万円くらいかかるのだ。
 毎日通勤で使っているのであればいざ知らず、月一ライダーには贅沢過ぎる。少々不便なことぐらい我慢しなさい、と自分に言い聞かせてきた。
(いや不便なのがいやなのではなく、後ろの人を待たせるのがいやなのだけど)

 で、「地方の高速道路どこまで走っても1000円」政策の一環で、バイク用ETCに15570円の助成金が出ることになった。3月12日から31日までの申込み分がその対象だ。
 実質12000円くらいからの費用で取り付けが可能になった。
 これなら例の「給付金」でまかなえるではないか。

 というわけで、市内某バイク店にてETC車載機を手に入れた。
 ふだん暇な平日の真っ昼間、もともと事務的なことが得意ではなさそうな店長は続々やってくる客の対応に追われているばかりか、頻繁にかかってくる問い合わせ電話でパニックになっていた。

 バイク用品の大手チェーン店では、休暇を取ってやってきたライダーが開店前に100人も並び、3月末までに取り付け可能な台数を一日の終わりを待たずに売り切ってしまったらしい。
 四輪とちがって店ですべて取付までやらなければならないルールになっているため、3月末までの作業時間枠が埋まってしまえば、いくら在庫があっても助成金の対象にならない。どうやら、その時間枠が埋まってしまったらしい。

 ここで申込みができなかった人も含め、小さなバイクショップには一日中問い合わせが殺到し、あっという間に日本中の機器の在庫とメカニックの作業時間が底をついてしまったというわけだ。

 帰りにオートバックスへ立ち寄ったら、ここも平日なのに駐車場に自家用車がいっぱい駐まっていて、奥さん風の人たちがETCの申込みカウンターに群がっていた。取付がすむまで待っている人も多くて、週末並に売り場も混んでいた。(こちらは4輪の話)

 もともとETCを付けたいと思っていた人の背中をうまく押したということのようです。

 埼玉県のある人はバイクショップ20軒に電話してすべての店で売り切れ、または助成金申請用紙がなくなっているとネットで報告。大きい店はバックオーダー100台(開始二日目ですよ)、助成金が新年度にすぐに出ても、取付作業は3月どころか6月まではかかるだろうと。

 平均客単価4万円(助成金の収入を含む)として、いままであった店舗にいきなり2日で500万円を売り上げるようなまったく新しい市場ができたわけですね。すごいなあ。

2009年01月17日

pomera (ポメラ) という筆記用具

 最近では、ブログを書く人など、書くこと自体を職業としていなくても、「書き手」が増えているから、pomeraみたいな道具は、もしかしたら、ものすごく需要があるのかもしれない。

 一昔前、神話があった。
「タイプライターがふつうに使われる欧米と違って、日本人はキーボード操作が苦手である」という神話だ。

 家電メーカーは、どうやらいまでも、どこかそう思っているふしがあって、テレビのリモコンにキーボードをつけないから、ビデオのタイトルを入れたりするのがすごくたいへんだったりする。

 せっかく機械の能力としてはいろいろ便利になって編集能力やタイトル管理機能があったりするのに、文字入力のインターフェースが悪すぎるのだ。バカだよね。
 USBでキーボードを挿せるようになっていれば、多くの家庭にあるキーボードで文字が簡単に入力できるというのに、50音の表の上をカーソル移動して文字を選ばせられる。
(せめて、携帯電話方式でテンキーで文字入力できればずっとまし)

 実際は、いい道具さえあれば、それで文字を書きたくてしょうがない人はたくさんいるのかもしれない。

 著述を直接職業としない人でも、実際、会社での仕事の多くは文書作成だし、仕事以外にも、ブログに日記を書いたり、自分史を書いたり、趣味で小説を書いたりする人はものすごくいるから、いまや「使いやすい文章入力ツール」があったら少々のお金を出しても手に入れたい人は意外に多いのかもしれない。

 若い世代は、すでに携帯メールでコミュニケーションしながら育っているから、思いの丈を文字にする文化は、これからますます盛んになるだろう。

 文房具屋さんの KING JIM が「電子鉛筆」として pomera を発売したのはひょっとしたら必然なのかもしれない。電気屋さんやパソコン屋さんこそが、キーボードやパソコンをいつまでも特別な存在と考えていたけど、ユーザーの方はとっくに書く道具として使いこなしていたのではないか。

 pomera とその評判を見聞きしていると、そんな気がするのだ。
 筆記用具だと思えば3時間しか使えないなんてあり得ないし、ネットにつながらないとダメだなんてことも別にない。そんなボールペンや鉛筆がどこにあるっていうんだ。

2008年12月21日

日本経済の現状:ホンダを例にして

去年までに起きていたこと;

 2008年3月期決算で、ホンダの売上は12兆円。営業利益8500億円。
 7年連続で過去最高の売上高(前年比12%増)。

9ヶ月後の現在起きていること;

 欧州の自動車販売は前年同月比26%減
 http://www.news24.jp/125211.html

 米国の自動車販売は前年同月比37%減
 http://www.news24.jp/124325.html

 中国も15%減。
 http://www.asahi.com/business/update/1211/TKY200812110267.html

 1年前に比べてドルは円に対して20%下落
 http://finance.yahoo.com/q/bc?s=USDJPY=X&t=1y&l=on&z=l&q=l&c=USDEUR=X

 ホンダの海外売上比率は 86.8% です。

 つまり、世界で車の売れる台数が3割くらい減って、その上、同じ額でもドルで入ってくる売り上げ収入は円にすると1年前に比べて2割少ないことになります。

 この傾向がこの先1年続くと、売上金額はドルベースで3割減、円換算で少なくとも4割減になります。

 12兆円の売上が8兆円になり、何もせずに放っておけば、2兆円規模の赤字になります。

 自動車産業にとって、ものすごーく厳しい経済状況です。
 そして、自動車産業は1年前には日本の企業の中でまだまだ優等生だったのです。

 たった9ヶ月で世の中ががらっと変わってしまいました。
 いままでのようなゆっくりとした変化ではなく、過激な、構造的な、変化です。
 日本そのものがピンチです。
 企業からの税収は激減します。所得税も伸びません。
 一方で、失業者は増え、高齢化はあいかわらず、医師も足りません。
 消費税以外に財源はなくなります。(無駄遣いはなくすにしても)

 この先、自動車産業が市場として復興することはないかもしれません。
 おそらくいままでの雇用を守ることすらむずかしいでしょう。

 まだまだある人手不足の産業に人を移動させる必要があります。
 と同時に、新しい産業が起きて、雇用を吸収する必要があります。

2008年12月16日

自動車という文化

 午前8時過ぎ起床。クルマ通勤の妻に渋谷でドロップしてもらい、まずはマクドナルドでコーヒー(120円)……までは順調なスタートだった。

 さあて、井の頭線で駒場へ向かおうかと思ったところで、気がつく。
 昨日、スポーツクラブへ行くときに、図書館の入館証を出したままもってきていない。駒場へ行っても図書館が使えないのでは意味がない。
 いやはや、朝から大マヌケ。
 家までもどるとすでに昼前である。ほぼ午前中を無駄にしてしまった。

 あらためて近所のスターバックスに出勤。

 ブックカフェなのでちらりとクルマ雑誌などをみると、フォルクスワーゲンの専門誌などが一種ならずあって、内容を見ると妙にエンスーな感じが意外だった。
 フォルクスワーゲンといえば名前からして国民車だし、ごくふつうの自動車だとしか思っていなかったのだけど、本の中ではなんだかスポーツカーみたいに扱われている。
 僕らの世代でいうと、ブルーバードSSS、カローラレビン、スプリンタートレノ、みたいな感じの記事が満載。
 まあ、たしかにフォルクスワーゲンのクルマには一貫したアイデンティティのようなものは感じる。
 トヨタは車種をまたいで、あるいはモデルチェンジごとに、VWほどの統一感はない。

 トヨタだと、大衆車カローラだっていまではけっこう立派なクルマになってしまって、代わりに下のクラスとしてヴィッツなんかを出してきたり。

 そこには、若くて貧乏なうちには小さいクルマで、成功していく過程で、だんだんと大きいクルマにしていくという暗黙の前提があり、カローラからカローラに買い換えるときも前よりは大きく立派になり、できれば「いつかはクラウン」という終身雇用年功序列出世物語がモデルになっているところがあり、それがたしかに日本的なのかもしれない。

 一方で、ヨーロッパのクルマは、お金があろうとなかろうと、目的と好みに応じて、それぞれ特徴のあるクルマを選んで乗る、そのためのバリエーションの提示として、メーカーやその車種展開があるように見える。
 そうなればフォルクスワーゲンゴルフに乗る人がベンツに乗る人よりも死にやすくていいわけではないのは当たり前だけれど、日本メーカーのクルマでは、下位モデルでは安全装備が目立って貧弱で、ある意味、コンパクトなクルマや動力性能を求めないクルマに乗る人は、道路で命を張らなくてはならないように見えるのも確かだ。

 日本の車社会もすでに成熟していて、クルマで人生のステータスを表現しようという発想はヤクザとごく一部の人たちのものになっている。

 とりわけ若者にとって自動車はロマンの対象ではなく、移動の道具にしかみえていないようだし、そうなれば都市に暮らすなら「なにげにクルマなんてなくてもいんじゃね」ということで、僕らの頃には学生のうちに取得しておくのが当然のようだった運転免許すら、今の大学生はあまり取らなくなっているらしい。
 
 中国でも景気が減速し、伸び盛りとされる新興国需要がまもなく一巡してしまうと、もう自動車産業は大きくは伸びることのない構造不況業種になっていく運命にあるようだ。

2008年12月11日

未曾有の不景気

 アメリカで自動車の売上が前年比30%も減ったなんてことは、世界史の上で一度もない。
 つまり、いまは産業革命以来、最大級の不況であり、その影響はこれからますます大きくなるだろう。

 実際、11月には、前年比40%減にまでなってしまった。GMは半減し、放っておけば半年後には確実に倒産する状態になっている。
 いま生きている人が、「だれも一度も経験したことのない不況」になっている。

 まだ黒字であるうちに人員削減を発表しているトヨタやキヤノンはさすがの先見性だといえる。
 大きく長くなるであろう不況に向かって、人員削減であらかじめ自分を小さくしておくことは企業にとって必須だ。そうしなければトヨタだってキヤノンだってつぶれるかもしれないのだ。

 こういうときに人員削減をする企業を「けしからん」となじっても始まらない。どこまでの会社が倒産するかまったく予断を許さないような不況の中で、トヨタもキヤノンもみな一斉に自分自身サバイバル状態なのだ。
 全産業横断的に不況の嵐に突入するとき、職を失った人を救うことができるのは政府だけだ。だれも雇い手はいなくなるのだから。

 大切なことがある。
 弱者を守るために政府が対策をとるということは、弱者でない国民の負担を増やす必要があるということだ。

 政府のお財布は国民の財布である。
 このような大不況の中で、給料が20%減らされたくらいの人は弱者には入らない。職がある限り、弱者を守ってあげる側の人間であることを自覚しなくてはならない。
 給料がちょっと減ったぐらいで弱者面して、政府を糾弾したり、大企業をなじったりしても何も解決にならない。(でも、新聞やテレビはそういう態度をとるだろうけどね)

 未曾有の危機にあるのだ。だれか偉い人が答を知っていて、その人が現れればみんなが救われるなんてシナリオは成り立たない。みんなで答を見つけなければならない時代に入るのだ。

 失業率が20%になったとき、職のある人が20%の収入源を受け入れれば、雇用は確保できる。

 こういうときに生き残るのは「貧乏に強いライフスタイル」を身につけている人だと思う。

2008年11月16日

さなぎの食堂

 昨日、テレビを見ていたら横浜のドヤ街・寿町の「さなぎの食堂」というところが、コンビニの期限切れの弁当を無料で仕入れて再加工して、300円で立派な定食を出しているのを報道していた。

 放送の中では、局側が、コンビニでは期限切れの2-4時間前に店頭から下げるので期限が切れているわけではないと強調していたけれど、実際に食堂で提供されるのは期限が切れた後であることも当然多いだろうし、食堂の方はそんなこと問題にしていないだろうし、最終的にお客さんに出す食品に責任が持てれば消費期限なんてどうでもいい。

 もちろん期限なんて切れたって全然平気なわけだから、このアプローチはとってもエコでいいと思う。

 日本で年間に捨てられる残飯は2300万トンだそうで、世界的な食糧危機の中で、そもそもあまり意味のない期限がちょっと切れたくらいで、それほどの量を捨ててしまうこと自体が人類にとっての犯罪だと僕は思っている。
 だって、それだけの食料またはお金があれば、地球のどこかの何千万人という人が生き延びることができるのだ。

 ちなみに、世界の食糧援助総量が750万トンだそうです。
 日本の家庭から出る残飯だけでも金額に換算すると3.2兆円、日本全体では11兆円という数字もあります。(数字の根拠や妥当性について僕はまだ検証できていません)

 さなぎの食堂の定食はコンビニ弁当からつくった痕跡などまったく見えないみごとなもので、ことの性質上、仕入れが安定しない中で創意工夫して出しているその知恵には敬服する。

 僕も、あんまり収入がないクセに、近所で600-800円のランチを食べてしまうことがあり、身の丈から考えたら贅沢なので、運動がてら、自転車でさなぎ食堂までいってみてもいいかもしれないと思った。

 青森では、林檎がヒョウの被害を受けてキズモノがたくさんできてしまっているらしい。
 野菜や果物の外観というのも、あまり意味のないことで、外観の悪いものもちゃんと食べきろうという運動はもっと拡がって欲しいと思う。

*阿川大樹の長編小説
         

2008年11月05日

学歴・収入・オバマ・マケイン

CNNによる出口調査の結果を見てみました。
http://edition.cnn.com/ELECTION/2008/results/polls/#USP00p1

 黒人の95%がオバマに投票しています。
 期日前投票に行列した(場所によっては6時間待ち)で投票したのもこの人たちでした。
 その他の有色人種もオバマ。

 でも、白人が75%を占めていて、55%がマケインです。

 年収150万円以下では圧倒的にオバマです。
 でも、高年収でもオバマとマケインは拮抗しています。
 オバマは選挙活動資金が豊富で、多くは10ドル単位の個人献金です。政治資金が豊富=金持ちのための政治、という構造が今回のアメリカではまったく成り立たなかったことが顕著な歴史上の事件だと思います。

 学歴では、大学院卒業と高校にいってない層でオバマが強い。
 高学歴高収入と、最下層でオバマ支持、中間層はマケインとオバマは拮抗してます。
 よく言われる民主党支持層がこれほど顕著に出ているのも象徴的です。

 見方を変えると、白人でも高学歴や高収入の人はオバマ。そういう人は、東部各州やカリフォルニアに集中しています。
 共和党の強い、あまり高学歴でない中部南部白人層(カントリーミュージックを聴く人たち)がマケイン。

 高齢者はマケイン。
 初めて投票した人の69%はオバマ。

 日本も、選挙に行かないクセに被害者意識が強くて格差に文句を言う人が、もっと主体的に政治にかかわれば社会は変わると思うのに。

2008年10月24日

メディアの没落と情報格差

 麻生首相が頻繁にホテルのバーに行っているということを、ぶらさがり取材をした北海道新聞の長谷川綾という記者が指摘した。
 いわく「高額な店で毎晩飲食していて、庶民感覚からずれている」と。

 麻生さんは、ホテルのバーや、(記者も知っている)麻布十番の店の名を挙げて、「高いところだとは思っていない」と答えた。

 それを聞いたぶらさがりの時にいた多くのメディアが、麻生首相のネガティブキャンペーンのネタとして、「ホテルのバーは高くない」という首相の発言をきわめて恣意的に歪曲して一斉に取り上げた。

 その尻馬に乗った民主党や社民党や共産党が、「国民が生活に苦しんでいるのに……」というコメントを発表した。

 で、国民の方はどうしたか。

 mixi のこのニュースへのコメントでは9割以上の人々が、

  「ホテルは高くない」
  「お金を持っている人が自分のサイフでどこへ行こうが問題ない」
  「首相が居酒屋や焼鳥屋へSPや報道陣を引き連れて来たらかえってみんなの迷惑」
  「一国の首相が、和民に通っているとしたら、そんな情けない国に住みたくない」
  「金持ちには金を使ってもらわないと景気がよくならない」
  「もっと大事なことがあるのにくだらないネガティブキャンペーンにはうんざり」

 とメディアに批判的な反応をした。

 一部の、ホテルのバーの値段を知らない人は、メディアの論調の通り「毎日高い店に出入りするなんて」と反応した。
 ところが、そうしたコメントのほとんどには、他の人が「ホテルのバーは高くない」と、帝国ホテルやニューオータニのバーの値段表や、麻布十番「馬尻」のメニューの写真などを示して、事実関係を教えてあげていた。

 ぶらさがり取材のやりとりの全文は、ネット上に文章で、あるいは you tube などの映像で参照でき、それを見た上で、麻生首相の行きつけの店の値段を知れば、メディアの報道がいかに事実を曲げているかということを誰でも、直接確かめることができる。

 メディアの死が近づいている。
 ネットコミュニティが健全な発展を示し始めている。

 むろん、いつもそうではないけれど。

 問題は、情報格差。
 インターネットを使わず、新聞テレビだけを情報源としている人たちの中には、メディアの的外れな報道を真に受けてしまう人が少なからずいる。

2008年07月16日

長野県 大町温泉郷

 7時20分に目覚ましをかけたつもりだった。
 2時間遅れの起床午前9時20分。

 午前11時、出発。一路、長野県大町温泉郷へ。
 一番の難所は中央高速調布インターチェンジまで。高速に乗ってしまえばあとはほとんどそのまま渋滞なし。交通量は少ない。ガソリンが高くなったせいもあるのかな。

 こちらは1980年代前半にリッター140-172円を経験しているので、いままでそれより安かった方が不思議な感じがして、特に驚かないんだけど。
 体感的にここ最近、いくつかの品目で急に上がったというものの、過去20年間、あまり物価が上がっているという実感がないし、多くの品目で価格はむしろ下がっているので、現在辺りまでは「物価高にあえぐ」という印象はない。テレビではさんざん庶民に大打撃なんていうけど、全然、ピンと来ない。昔はもっとずっと生活苦しかったから。
(これ以上に上がると、そろそろ初体験ゾーンかもしれないけど)

 サラリーマンをやっていたころの昼食代は、工場勤務の社員食堂時代は別にしても20年前でも800円くらいだった。そのころのガソリンはリッター150円くらい。
 いまでは、コンビニ弁当があるので、500円でも可能だし、マクドナルドでよければ300円でもランチが可能。物価はまだそんなに高いという実感はありません。
 タマゴも牛乳もほとんど上がっていません。
 30年前、手取り10万円を切る初任給で風呂なしトイレ共同の8畳一間に暮らしていたときも、夕食を外食すると定食が600-800円だったから、今と同じようなものです。いまみたいにチェーンの居酒屋はあまりなかったので、飲み代ももっと高かった。

 高速道路はスイスイ走るととても楽しいので、ガソリン高騰も悪くない。
 いままで無駄に走っていたところが節約されるようになるでしょう。宅配便だって、ほとんどの場合、別に1日で届かなくたっていいじゃない。
 無駄に急いで無駄にエネルギー消費していたのを改めるいい機会だと思います。

 と、そんなわけで、午後4時、大町温泉郷の旅館「緑翠亭 景水」に到着。
 和風の温泉旅館は久しぶり。
 窓側が外の景色の見えるお風呂になっている。24時間お湯が満たされている浴槽は信楽焼。

 夕食の料理は板長さんの創意工夫が表現された味も見かけもすばらしいもの。
 難をいえば、量が多すぎるってことかな。こりゃあ太りそうだ。


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2008年06月19日

コザの魅力と難しさ

 人というのは、未知のものを見るときに、何か知っているものと同じものを発見し、まず最初にそこから類推して仮説を立てる。こういう場所はおそらくこうであろう、という具合に。
 この方法は十分に経験を積んでいる人なら多くの場合、それほど精度は悪くない。

 ただ、あくまでも経験を基準にする以上、経験したことのないものがあれば類推は困難になるし、群盲象を語るようにサンプル地点がちがうことで結論が変わることもある。

 時間として53年間生きてきているし、地理的にアメリカには60回くらい、その他の国や地域にも15ヶ国くらい行ったことがあるから、僕はそれほど世間知らずではないと思うけれど、コザはまったく想像を超えている。

 一言でいえば、平準化されていないために、ある測定結果をもとに延長線上に類推することがほとんどできないのだ。
 週末と平日でまったく異なる町になる。夜と昼とも全然ちがう。店の構えと中がちがう。夜でも、午後10時と午前2時は全然ちがう。

 見た目は、きわめてさびれている。都会と比べれば特にその差は大きい。
 都会なら看板のペンキが剥がれて読めなくなっている店はふつうまったく期待できないが、コザでは外装と店の満足度はほとんど独立していて無関係だ。なので、看板や外装で判断すれば、コザはただのさびれた活気のない町にしかみえない。

 週末だけオープンする店が有り、その店が特別なにぎわいをもつ。
 看板もボロいし、平日にどの時刻に通りかかってもつぶれて営業していない店に見えるだろう。営業している時刻に店の前に立っても掠れた看板に照明が当てられている程度で、まあ、それほど見栄えはかわらないかもしれない。
 だが、金曜の午後11時から午前2時にその店に行けば、チャージなしドリンク500円で、世界でも一流のロックを聴くことができて、アメリカ兵も日本人も入り乱れて熱狂している。

 午前1時にオープンし、午前2時からライブが始まって午前5時までそれが続き、ずっと満員の店がある。昼間はもちろん、午後10時に前を通っても、ただのつぶれた店にしか見えない。実際、僕は4年間もその店は営業していないと思っていた。

 たいていは午前0時に開くが開かないこともあるバーがある。
 何もないときはただ無愛想な店主が飲み物を出しているだけである。
 平日でも午後2時を過ぎると、カウンターに数人の客が並ぶことがあり、そのほとんどがプロのミュージシャンだったりする。それだけならそういう客層であるというだけだ。
 が、そこにアメリカ人がやって来て、壁のギターを弾いてもいいかと言いだす。
 彼は軽くつま弾き始め、やがてちょっと歌い出す。
 ライブハウスでもないのに、その店にはギターが3本あり、時には客がギターを携えて来店している。歌い始めたアメリカ人にカウンターの客が合わせる。代わる代わる全員がギターを持ちかえてセッションになる。
 ひとしきり終わってから、自己紹介をする。
 そのアメリカ人のことをだれも知らないがミュージシャンだというので、店のパソコンで検索してみると、全米でCDを500万枚売っているグループのボーカルだとわかる。彼に加わってセッションをした客はみなプロのギタリストだから、500万枚アーチストよりももちろんギターが旨い。
 口には出さないがビックリして帰ったはずだ。

 別な店では、カウンターの日本人客が、黒人兵にブルースギターの弾き方を教えているのを見たこともある。

 たぶん、そんな町は日本のどこにもない。
 コザはどこにも似ていないから、いろいろ類推するのがほとんど不可能だ。見た目はただのシャッター街で、実際、空き店舗も多いのだけれど、見た目からは絶対空き店舗だとしか見えないけれど、実は営業している店もたくさんあり、中ではそんなことが起きているのだ。

 貸店舗を返すときに原状復帰をしないみたいだから、多くの空き店舗にも看板が掲げられている。営業している店でも造作にほとんどお金をかけない。突然の夜逃げの店もある。
 ようするに、店が閉まっているときに、空き店舗かどうかを判断する方法がまったくない。確かめたかったら2週間くらいにわたって昼間や深夜や早朝など色々な時刻に定点観測してみる必要がある。

 これほど外観で判断できない町も珍しい。

 だからこそ探検が楽しいし、町はアドベンチャーに満ちている。
 その上、それによって発見できるもののクオリティがとても高いから、コザという町はものすごく魅力的なのだ。

2008年05月01日

税金を上げよう

 税金は安ければ安いほどいい、なんて僕は思わない。

 本当の弱者は守ってあげなくてはいけない。が、声高に「生活が苦しくなる」と文句を言っているひとの大多数は「贅沢ができなくなる」だけのこと。ほとんどの人は弱者を守る側の人であって、救われるべき弱者じゃない。
 ひとりあたり年間200万円くらいの収入で、健康であればそれで十分楽しく生きていける。(会社員を辞めて小説家になって身をもってそれを実証しているからよくわかる)

 本当に貧しい人を守ってあげるためには、十分生きていける人からはもっと税金を取らなくてはならない。単純に計算すればわかることだ。弱者救済は必要で、それを実行するには多くの人が自分の暮らしをどこかで切り詰めて財源を確保する必要がある。

 最近話題の暫定税率は一日に換算すると60億円。(20万円のマッサージチェアに換算して毎日3万個分
 税金の無駄遣いはおおいに気に入らないが、道路特定財源の無駄遣いを全部やめても、それを補うことはできない。無駄な道路建設はやめて欲しいが、それにしてもこの財源の多くの部分は新規の建設ではなく既存の道路などの保守費用だ。つまり、ガソリンの税金をなくしてしまったら、道路を荒れ放題にしておくか、教育か福祉か産業振興かなにかしらの費用を減らさなくてはならない。

 つまり「税金を上げる前に無駄遣いをやめろ」は理屈に合わない。無駄なマッサージチェアだの天下り役人の高額な退職金など全部やめても、暫定税率を元に戻さなければ全然足りないのだ。

 つまり無駄遣いを減らすのは当然としてもあくまでもそれとガソリン値上げは別問題なのだ。
 無駄な橋や道路の建設をやめるにしても、そんなには節約できない。
 結局「税金〈も〉上げて無駄遣い〈も〉やめろ」しかありえないのだ。

 むしろ、税金上げてもいいからもっと教育や医療や福祉に金をかけて欲しいと僕は思う。

2008年04月25日

なるほどコンビニエント

 20年もののバイク GB250 Clubman を知り合いのメカニックにメンテナンスしてもらって再び乗り始めたのがちょうど1年前のことだ。
 自賠責保険も満期を迎える。

 幸いなことに4月から保険料が安くなった。
 どちらにしても期限が切れる前に保険を更新しなければならない。で、コンビニで自賠責保険に加入できるとわかって、プールの帰りにセブンイレブンに寄った。
 大きなコピー機に液晶タッチスクリーンがついている端末があり、そこで、ナンバープレートの内容、車体ナンバー、住所氏名などを入力すると、紙が出力されて出てくる。
 それをもってレジで保険料を払うと、レジで、「保険のしおり」とナンバープレートに貼るシールをくれる。
 さっきの端末にもどり、さきほどプリントアウトされた番号を入れると、保険証書がプリントアウトされて出てくる。
 保険加入の方法としてこれ以上簡単な方法はないし、数分で、保険証書まで即日発効というスピード。

 コンビニってすごいな。

2008年03月15日

日本の凋落

 資料として送ってもらったビデオを見始めた。

 ビジネスの世界で日本とアメリカの差があまりにも大きく、その差は開いていくばかりだ。
 さらに、日本は市場としての魅力も中国にかなわない。だからお客さんとしても、ゆっくりと、いや、ひょっとしたら急速に見捨てられつつある。
 世界の企業から相手にされず、日本の企業は中国というフロンティアでも勝てない。
 このままでは、五年後ですら日本はひどいことになってしまうだろう。

 一番の問題は、日本国民がそういう危機にいるということをちゃんと認識していないということ。
 これは相当なピンチだ。

 勝たないで幸福になるシナリオもあり、それを選ぶのならそれはそれですばらしいと僕は思うけど、実際はそういうわけでもなく、ただ負け続ける国になっていくように思う。

 目の前で起きていることを、なんで見ようとしないのだろう。

 資源のない加工貿易の国、電子立国、勤勉な日本人、そんな「標語」や「モデルの捉え方」は全部、とっくに過去のものだ。

 世界には資源も技術も労働力もある。

 日本がそういう世界を利用していかなくてはならないのに、日本は日本の中でまずやろうとしている。その時点で、もうほとんど負けが決まってしまう。

 スポーツの世界でもぱっとしないのは、やっぱり時代遅れなやり方しかしていないからだ。プロ野球はほんとに日本の縮図なのだな。

 調べものをしていたら、また、暗澹たる気持ちになった。
 少なくとも、それを認識している僕が、日本に何をできるだろう。

"Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.", by John F Kennedy
 JFKがこういったのは1961年のことだ。

「愛国心とは、国の為に戦争に行くことではなく、自分の手で国を造ろうと思うことである」(阿川大樹)(2008)

2008年03月09日

高橋尚子というプロフェッショナル

 昨日、久しぶりにマラソンを始めから最後まで見ました。

 高橋尚子さん、立派なアスリートであることはたしかだけれど、実際は2005年以来めぼしい成績を残していない。であるのにみんながどうしてそんなに期待するのかよくわからないのだけど、やっぱりダメでしたね。

 彼女はプロなので、自分でダメだと思っていても、大丈夫な振りをして期待を引っ張るのが仕事です。そういう意味では、立派な仕事をしたと思います。
 走り出してすぐにやっぱり北京はだめだと思っただろうけど、彼女の場合、走っていさえすれば映像には出るので、勝ち負けとは別にスポンサーの為にも走り続けるべきなので。
(実際、本人も完走したかったのだとは思いますけれども)
「マラソンのプロ」というのは、走って賞金をもらうというよりも、広告塔としての役割であるところが、野球やゴルフやテニスとずいぶんちがうところです。

 昨年の負傷+手術というのは、別に彼女が特別不運なのではなくて、アスリートというのは、そうやって怪我と戦いながら生きていくのがふつうのことなので、なんかそれを賛美するような風潮はいやです。
 マラソンを6時間かけて走る市民ランナーも、仕事が忙しいお父さんも、みんなそれぞれのレベルで「故障」と戦いながら同じようにがんばっている。高橋尚子さんのように光の当たる人だけががんばっているわけじゃない。 彼女と同じくらいがんばっている人は、ものすごくたくさんいる。
 少なくとも何かに夢をもっている人は、ふつう、そういうふうに時分のためにがんばっている。高橋尚子が特別だとは僕は思いません。

 彼女の場合、1998年から2002年まで、すばらしい成績を残していたということは、逆に肉体をぎりぎりまで酷使してきたわけなので、不運なのではなく当然の帰結として、故障することになって、それ以降は2005年に優勝はしたけれど、そこを最後にもうトップランカーとしては走れていませんでした。

 すでに十分な成績を残したアスリートであることを評価するのは当然として、だからといって、結果がすべての世界でその後まで美化するのは、僕は好きじゃないです。アスリートを努力で評価するなら、彼女以上の人なんていくらだっている。

 一方、スポーツタレントとしてみれば、実力がなくなってからも二年以上、(2002年から勘定すれば5年以上)これだけ商品価値を保っていたのは、プロとしてすばらしと思います。


 アマチュアフットボールプレイヤーの僕は、右足首捻挫からゲーム復帰まで1年半かかりました。
 腰の手術から6ヶ月経って、昨日は、仲間がゲームをしているところまで行って、フットサルコートの外で、一人で、走ったり、ドリブルの練習をしたり、ストレッチをしたりして別メニュー(笑)で調整していました。
 全体に筋力がないので、機敏に動けないのと、足の筋力がまるで続かない。
 ゴールに向かって何本かシュートを撃ってみたけど、全力では蹴れないし、体をひねって90度の方向に蹴るのはきつい。

 アマチュアの特権なので、ゆっくりやろうと思います。

「あきらめなければ夢は叶う」
 僕にとってはあまりにも当たり前のことで、ずっとそう思って生きてきているので、彼女を見ると、なんだかそういう説教臭さに反発してしまいます。
 でも、彼女の言葉で実際に元気づけられる人がたくさんいるのは事実らしく、つまりそれは、「みんないろいろなことをあきらめて生きているんだな」ということであり、小説家としては、その「ままならぬ人生の切なさ」は大切に捉えたいと思います。
 と同時に、あきらめてしまっている人の多くが、高橋尚子ほどの努力をしないであきらめている。
 憧れていないで、自分が高橋尚子になれよ。
 彼女の言葉や生き方に感動していないで、自分で努力して夢に向かって進めばいいのに、「Qちゃんから元気をもらった」なんていいながら、少しも努力をしない人がたくさんいるんだよね。

 脱稿した歌舞伎町の小説は、野心(夢)を待つことで大きなものにつぶされる女性の物語です。

2008年03月05日

ビジネスモデルの栄枯盛衰

 mixi のご乱心は、おそらく、世の中の流れであるSNSのAPIの公開の本流に乗るために必要な措置として狙ったものだろうと思っています。

 クローズでああることで会員が増えたmixiは1000万人の規模になって会社として成長するにはクローズであることが足かせになっている。だから、外との接続性を確保したい。
 コンテンツをちらりと外の人に見せたいわけですね。
 
 しかし、これを打破してしまうのは自己否定であって、mixi の本質である非公開や限定公開とはもともと相容れないものです。

 会社というのにはも寿命があってしかるべきで、いつまでも続くのがいいわけではないのだけれど、瞬間々々は明日どうしようであり、株主にどうこたえるのかという答も出さなければならない。

 正解はたぶん、次の事業を別会社で興して、そちらに投資し、本業が衰退する前に、そちらが興隆したところで、古いビジネスはだれかにシナジーでより価値の出る相手に売り飛ばして現金化して、新しいビジネスにスイッチする、ということだと思います。
 会社を売る、買収される、のは、成功の一種でよいことなのだけれど、日本ではそういう感覚はあんまりないので、従業員もえらい反発したりする。経営者まで反発したりして。

 事業に寿命はあるのだから、会社がそれで衰退するのを流れに棹をさしても止められるものではなく、会社は古いものをじょうずに捨てながら新しい柱をどうにかしてつくらなくてはならない。
 それをするのが経営者ですが、実態は「予想以上の市場の変化があったため」などと業績の悪化を、自分のせいではなく「世の中が悪いのよ」みたいにいうことが多いのですね。

 たとえば、ソフトバンクはそうやって、いろいろ新しいことを取り入れている。個人的に好きではないけれど、孫正義さんは、経営者としては松下幸之助級の歴史に残るような経営者だと思います。
 ほんの一例ですが、旧国策企業の NTT Docomo や KDDI を相手に、Softbank の携帯電話は十ヶ月連続純増数 No.1 ですからね。

 日立東芝NECなどの古いエスタブリッシュメントは、自分のなかで多角化するのだけれど、これは効率が悪いし、競争力が弱い。

 mixi のまま、会社を伸ばすのではなく、まったく別なことを始めるしかないんだよ、笠原さん。
 と、まあ、そういうことなんじゃないかと思います。

2008年03月04日

mixi規約改定

 mixi が会員とのあいだの契約である利用規程を改定しようとしているのが3月3日付けで告知されたのですが、4月1日からこんなことになるという、とんでもない内容を提示しています。

第18条 日記等の情報の使用許諾等

1)本サービスを利用してユーザーが日記等の情報を投稿する場合には、ユーザーは弊社に対して、当該日記等の情報を日本の国内外において無償かつ非独占的に使用する権利(複製、上映、公衆送信、展示、頒布、翻訳、改変等を行うこと)を許諾するものとします。
2)ユーザーは、弊社に対して著作者人格権を行使しないものとします。

つまり、これは

1)友人限定、あるいは、会員限定であることを前提に書いたものも含め、日記やコミュニティに書いた文章を、mixi が自由に外部に公表できる。
2)その際に、改変することもある。
3)発表しても対価は払わない。
4)発表の際、著者の氏名の表示もしないかもしれない。
5)発表の際、改変されたものに著者の氏名表示が為されるかもしれない。

ということです。

 しかも、過去に書いたものにもこの規定は適用されるという。

 私としては、著作を生業とするものとして、この条件は到底、許諾できないので、過去に書いたものも含め、大幅に削除するしかないですし、今後、書き込むものもこの条件を考えた書き込みにならざるを得ません。

 そうでなくても、友人限定の日記を外に公開されたらたまったもんじゃない。
 自分のプライバシーだけでなく、日記の登場人物のプライバシーも侵害されます。

 それに怒った会員も多く、あっというまに数千人規模の反対運動が起きて、mixi もあわてて火消しにまわっていますが、新しく条文を提示しないと、この騒ぎはとうてい収まりそうにありません。

 外部のメディアにもこのことは報じられています。

 ただ、そこでの内容は「日記が勝手に出版されてしまう」というような観点で書かれたものが多く、それ自体は間違っていないにしても、本質的なことではありません。

 出版するに値するものはそれほど多くはないので、影響の及ぶ範囲は限定的です。(阿川のような著作を生業としているものにとっては重大なことですが)

 重要なことは、「限られた人にしか見せないつもりで書かれたもの」を、mixi が改変する権利をもったまま自由に公表する権利をもつような条文になっている。しかも、この規定が適用されるより前に書かれたものにまで、それが適用される。

 mixi には、DVで夫から逃げてきている人のコミュニティもあれば、性的マイノリティの人たちのコミュニティもあります。非公開であるからこそ、安心して悩みを語り合ったり、情報交換をしたりできていたものが、突然、mixi 運営側に、自由に公表する権利がわたってしまうわけで、これは「勝手に出版」うんぬんではなく、ひとりひとりのプライバシーの問題です。

 そんこともあって、退会する人が続々と出ていますし、閉鎖になったコミュニティもあります。
 mixi は、投資格付けが下がって株価が下がったところに、追い打ちをかけるように失態を演じています。

2008年02月23日

沖縄と米軍

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 沖縄市の女子中学生がアメリカ海兵隊員から暴行を受けるという事件が起きました。
 米兵が中学生を誘った「サーティワンアイスクリーム」があるのが上の写真の「コザミュージックタウン」です。

 事件が起きて、外出禁止(オフリミット)になり、嘉手納基地の門前町であるコザ(沖縄市)がガランとしている、という報道がなされ、アメリカ兵向けの店が並んでいる空港通りやかつてそういう店が密集していたセンター通り(旧BCストリート)の映像がテレビで流されます。

 ところが、「米兵がいなくなってひっそりとしています」という映像は、いつもの風景とかわりがありません。あのあたりは、週末の夜以外はいつだってひっそりとしているんです。
 毎日のように兵隊で賑わっていたのは、ベトナム戦争の頃まで。
 日本中にあるシャッター通りと同じなのです。

 それにしても、平日の、しかも昼間の、いつもながらの映像を撮って、「事件の影響で人通りが絶えた沖縄」だと報道するまるでインチキなテレビ。都合のよい映像に都合のよい説明をつけて流して、どこが報道なのでしょうね。

 下の写真は、外出禁止でない、2004年と2007年のセンター通りとゲート通りです。

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2008年02月17日

東芝経営陣を讃える

 次世代DVDの規格として、HD-DVD と blu-ray が競争を繰り広げていました。
 まだユーザーへの導入が始まったばかりですが、昨年末までで blu-ray が圧倒的なシェアを確保したと聞いていました。しかし、まだ、ほとんど買った人がいない、市場としては黎明期。
 しかし、 HD-DVD を推進している東芝は撤退を決めたようです。

 かねてより、ハードディスク録画、衛星や光ファイバーでニアーオンデマンド、の時代になるので、ブルーレイかHDDVDかは、基本的にどうでもよいこと、という主張をしてきたので、ブルーレイが勝ったということには何の感慨もないのですが、この件でいちばん感動したのは、この時期に早々と撤退を決めたということです。

 一度始めた大プロジェクトを畳む決断がどれだけむずかしいか。
 会社を経営したことのある人でないとなかなか直感的にはわからないだろうと思うのですが、自分の判断で何百億の損失を確定させ、工場の操業を停止させる、という決断はなかなかできるものではありません。

 この時期の東芝のこの決断は日本の経営の歴史に残る大英断だと思います。
 かなりスゴイです。

 決断の背景には、勝ってこの市場の100%とってもその規模はたいしたことはなく、かつてのビテオテープのように各家庭に1台入るようにはならないであろうという予測もあったかもしれません。
 現に、うちも買うつもりは全くない。
 コンテンツを受け取る側では、多チャンネル化した放送とネット配信で十分ですし、家庭での保存もディスクに焼くよりも、ハードディスクにしまっておいたほうが便利だし、足らなければUSB接続などのハードディスクを増設したり差し替えた方が使い勝手がいい。(我が家のはまだそうではないけど、HDDレコーダーもその方向に変わってきています)

 そもそもオンデマンドでいつでも見ることができるのなら、保存する必要すらないんですよね。
 有料コンテンツなら、ライセンス情報だけ保持して、それを参照してそのつどダウンロードなりストリーム再生なりすればいい。保存が必要なのは、自分で製作したコンテンツくらいですが、それこそハードディスクでいい。

 というわけで、もともと不毛なあまり意味のない競争だったと思います。
 勝ってももうからない競争にお金をつぎ込むのは馬鹿げています。
 
 そういう読みを含めて、早期に撤退を決めて損失を最小限に抑えた東芝経営陣の判断の素晴らしさに、敬意を表します。これはもう絶賛すべきです。

2007年12月24日

wii + wii fit 任天堂の偉業

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 クリスマス・イブ。
 昨日、ヨドバシで注文した wii + wii fit が本日午前9時過ぎに届いた。
 注文から20時間しか経ってない。すごいな最先端の流通。

 午後3時くらいから夫婦で3時間ほど遊んじゃった。
 軽く汗ばむので、夕食の時まで暖房がいらなかった。

 体動かさないと頭も働かない、というときがある。
 特にバランスを取るという意外に体幹をしっかりつかう運動ばかりなので、僕のような暮らしには、かなりいいかもしれません。
 最初、慣れないこともあってバランス年齢が「+13歳」で「げっ」と思ったけど、1時間ほど遊んでからもういちど測ったら「-14歳」と、一気に27歳若返った。ほんとかよ。(やる気を出させるためのおべんちゃらだろ)

 どうやら、静止時のバランスはほとんど完璧。意図的にずらしていくのは、けっこう苦手、片足立ちは軸足の左はいいけど、右だと不安定。
 重心の位置を中間位置で自分の思ったように思った精度で動かすのはなかなかむずかしいのだ。

 すでに自分のアバターに愛着を感じ始めています。(笑)

 しかし、デザインも大人向けにできていて、wii は、すごくいい商品だ。
 ソニーの Play Station に於ける戦略の間違いが、ほんとに力任せでダサイものだったということがわかってしまう。任天堂はまったく新しいホームエンターテインメントをいいかたちで産み出した。
 これは、かつてのウォークマンに匹敵する画期的な「発明」だと思う。
 鉄腕アトムの頃に描いた、21世紀の姿は、Play Station 3 よりも wii が体現していると思う。「生活のなかの先端技術のありかた」という視点。

 深夜から明け方にかけて、年賀状200枚の印刷。
 他に妻が150枚出すので、我が家の年賀状は合計350枚。
 妻と僕とは別人格なので、一人の方にそれぞれから年賀状が別に届くこともあります。(て、当たり前のことだと思うけど、意外にそういう受け取り方をした経験はないなあ)

 我が家はクリスチャンでも商売人でもないので、クリスマスイブのイベントは特になし。

 よく、「クリスチャンじゃないのに騒ぎすぎ」という人がいるけど、そもそもクリスチャンはクリスマスに騒がない。一方、宗教にかかわらず商売人ならあらゆる機会をうまく利用するのは当然だと思う。消費者としての自分はそれに乗るつもりはないけど、クリスマスは(宗教行事ではなくとも商売の機会として)騒ぐべきだ。
 イスラムのイベントもヒンズーのイベントも、どんどん掘り起こしてやったらいいんじゃないかな。

2007年12月14日

負の遺産を資産だと考える若者たち

 2005年まで、横浜の黄金町の大岡川沿いには売春宿が並んでいた。
 春を売るビジネスは行政により一掃され、小さな店舗が残った。
 国際的な観光都市であり、お洒落な町として人気の高い横浜市としては、その歴史は汚点であるらしい。

 もちろん法を犯していい筈がない。が、誰でも知っているその地域は2005年までたしかに売春宿であり、夜、そこを通れば小さな小さなそれぞれの店の前には、挑発的な服装をした外国人が、学園祭の芝居小屋のように、蛍光灯にピンクや青のセロファンを巻いた照明に照らされて立っていたのだ。
 15分とか30分とか、わずかな時間にセックスを売るその場所は「ちょんの間」と呼ばれていた。
 法律はなにも変わっていないが、2005年を境に、行政はそこを「再開発」することにしたのである。いまその歴史自体も消してしまいたい負の遺産であると行政は考えているらしい。

 往時には月70万円はしたといわれるそのあたりの空いた店舗は、いまは家賃5万円で、まがりなりにも飲食店の設備が施されているから、若者がわずかな資金で店を開くことができる。
 金はないけれど実現してみたいアイデアをもった若者が、「消し去りたい負の遺産」を「文化遺産」という「資産」だと考えた。
 この町の町おこしをしてやろうじゃないかと考えた若者がいた。

 そう、新宿ゴールデン街も、都橋商店街も、ほとんど同じ空気をもっている。あるいは新橋のガード下だってそうだ。僕はゴールデン街で飲んでいる億万長者を何人も知っている。何十億円の買い物をした人が、同じ夜、1500円の飲み代を奢られている場面だって目撃したことがある。
 もちろん、いかがわしい悪の巣窟などではないし、ただの貧乏人の巣窟でもない。
 猥雑な空気こそが資産であるというのは、そこに集まる人たちが多くいることが証明している。それを積極的に必要としている人間が少なからずいるということなのだ。

 画一的なクリーンさを求め、過去の歴史をできれば封印してしまいたいと考えた行政と、その町を面白いと思った若者たちは、どうやら、どこか相容れないところがあったようだ。

 夜の9時、僕はそんな若者たちに初めて巡り会い、午前3時まで語り合った。
 ものすごく楽しかった。
 彼らのやろうとしていることは正しい。
 どうしたら、あの町を本当の意味で守っていくことができるのか、僕の頭は回り出している。


以下、彼らの好意により、ちょんの間の中を撮影させてもらった

 建物はものすごくきれいだ。
 同じように以前は青線だったゴールデン街は売春防止法(1956年)施行から立て替えられていない木造建築であるため、かなり老朽化している。だが、黄金町は2005年まで現役の売春宿であり、現代の衛生観念にそってリニューアルされている。
 飲食店であるはずなのに、トイレにシャワー設備があるのが、「そのため」の店であったことを物語る。
 店の裏口も道路に面している。万一の時も逃げ出すことができる構造だ。
 今は月5万円の家賃も、かつてはこの狭さで70万円。つまり、それだけの「上がり」があったということだ。
 物件によっては、ひとつの店の、土地と上屋、さらにはカウンターと二つの部屋が、それぞれの別の所有者になっているという。さらには日本にいない外国人の所有になっていることもあるという。
 このような権利関係の複雑さは、女一人と部屋ひとつが、それぞれにビジネスユニットであったことの名残であり、またそれがこの地区の再開発をむずかしくしている。

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 短いスカートの女が客を伴って昇ったであろう狭くて急な階段

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 壁から壁まで人が横になるぎりぎりサイズのベッドで占められている部屋。
 もはや売春宿ではないので横になっている男性は「客」ではない。(念のため)

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 小さな窓の外は大岡川。春にはサクラが咲き誇る名所だ。

 昼間の外のようすは、こちらの関連エントリーで。

2007年12月05日

飛行機の座席の決め方

 今回の沖縄行き、いつものANA127便、席はいつもの76H(二階席前から6列目通路側)。帰りも同じ席をとっている。
 通路側の方が足下が広い。窓側を好きな人が多いおかげで、座席が3つ並んだ列の通路側を真っ先に予約すると、隣が空席になる確率が高い。
 空いているときには3つ独り占めにできる可能性も高い。もしそうなれば、肘掛けを跳ね上げると横になって眠れる。そうするとビジネスクラスよりむしろ快適だ。ただし、シートベルトをふつうのやり方ではできないので乱気流に注意。
 トイレも行きやすい。客室乗務員のサービスも受けやすい。頭上の荷物入れにちょうど手が届く。脱出用のドアから2列目で歩いて6歩くらいだから、いざというときの脱出の際も生き残りやすい。

 窓側は外が見えるという以外には何のメリットもない。そもそも、ほとんどの時間、見えているのは雲ばかりだ。でなければ暗闇。

 二階席は搭乗ゲートからも近いし団体客に遭遇しにくい。逆にデメリットは頭上の風切り音がうるさいこと。(対策は、ヘッドフォンステレオで耳を塞いで毒をもって毒を制す)
 ちなみに、ふたりで旅行するときは、真ん中を空けて通路側と窓側をとると、(他が空いているのにわざわざ真ん中を選ぶ人はいないので)3つの座席を独占できる可能性が高くなる。万一、真ん中に人が来たら、現場で代わってもらうように頼めば、ふつう拒む人はいないので問題なし。

2007年11月14日

売春飲食街 黄金町/初音町

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 次の次、第4作に予定してる小説の取材。
 横浜大岡川沿いの黄金町から初音町にかけて桜通といわれる場所があり、そこは2005年に排除されるまで、「ちょんの間」と呼ばれる売春宿街だった。

 聞くところによれば、15分3000円とか5000円とか。 (ながい歴史のあることだからたぶん調査時のちがいだろう)

 間口は自転車の長さほど。
 看板には「スナック」とあり、なかにカウンターはあるが、そこで酒を飲む人はいない。一番奥の狭い階段を登ると二階にセンベイ布団が敷かれた部屋があるわけだ。ドアの形は多少違うが、建築様式はきわめて似通っている。

 2002年ごろには、夜になると、白人女性(東欧系)が店の外に、ボディコンとか超ミニで立っていて、ピンクや青の蛍光灯で照らされていた。肌が白い彼女たちはそんな光で現実感のないSFかCGの世界の女みたいに見えたものだ。
 路地の向こうとこちらのエンドには用心棒と思しき男性がそれとなく立っていた。推測されるその役割は、狼藉者の排除、女の逃亡防止、警察の手入れの検知。
 女性はコロンビア人やタイ人が多かったという人もいる。

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 2005年、行政によって一掃された売春宿は、いわゆる再開発が起こっている。が、イメージの悪い街の狭くて小さな物件、つまり、安い家賃によって、若者たちにビジネスチャンスを生んでいる。
 新しい店の中を覗くと、かつての室内の構造がよくわかる。

 大岡川を隔てて二本ほど伊勢佐木町よりの通りを若葉町といい、そこはタイ人街である。
 10kg入りのタイ米が買える小さなマーケット。
 タイ料理の店が点々と並ぶ。
 そのなかの一軒に夕食に入った夜9時過ぎから11時前まで、店の中はタイ語しか聞こえてこなかった。
 大きなスタイリストバッグをふたつ、重そうに両肩にかけた女が、店の主人のところに、音の出るぬいぐるみを行商にやってきた。会話はやはりタイ語だ。
 しばらく彼女の顔をじっと見つめて話を聞いていた店の主人は、やがて顔の前で手を振って「いらない」と意思表示をした。
 一晩にいったいいくつ売れて、彼女の収入はいくらになるんだろう。
 午後10時現在、彼女のバッグははち切れんばかりだった。

「ちょんの間」の内部を撮影した関連エントリーは こちら

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2007年07月19日

ソニー iPod の周辺機器に本格参入

 ソニーが iPod の周辺機器に参入するらしい。
 平たくいえば、iPod が接続できるオーディオ機器を発売するということだ。

 ベータ、メモリースティック、ブルーレイ。
 ソニーの衰退は「自分の規格のユーザーへの押しつけ」の歴史によるものだった。

 新しいものを産み出すことと、それをユーザーに押しつけることはおなじじゃない。新しいものを産み出すことはリスペクトされることだけれど、ソニーは他のそういう人へのリスペクトがなかった。ユーザーへの親切心も持ち合わせていなかった。
 よいものを提供することで支持されようとするのではなく、囲い込むことで、ユーザーの自由を奪うことで、自分のポジションを作ろうとしていた。
 そんなソニーだったから、ユーザーが離れていったのだ。

 相互運用性、相互接続性、互換性、それらこそが時代に(つまりユーザーに)もっとも必要な、欠くことのできない「性能」なのだから。

 iPod のよさに対して、謙虚になれたことはソニーの大きな進歩だと思う。
 ウォークマンは、コンパクトカセットテープというオープンな規格の中で画期的な商品をだして成功したではないか。それがソニーだったのに、いつから独自規格の囲いこみに走る会社になってしまったのだ。
(多かれ少なかれニンテンドーの成功に影響されたのだと思うけれど)

 とにかくソニーがユーザー無視の囲い込み戦略から脱皮してきているのを喜びたいと思う。