覇権の標的 D列車でいこう 








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2008年11月16日

さなぎの食堂

 昨日、テレビを見ていたら横浜のドヤ街・寿町の「さなぎの食堂」というところが、コンビニの期限切れの弁当を無料で仕入れて再加工して、300円で立派な定食を出しているのを報道していた。

 放送の中では、局側が、コンビニでは期限切れの2-4時間前に店頭から下げるので期限が切れているわけではないと強調していたけれど、実際に食堂で提供されるのは期限が切れた後であることも当然多いだろうし、食堂の方はそんなこと問題にしていないだろうし、最終的にお客さんに出す食品に責任が持てれば消費期限なんてどうでもいい。

 もちろん期限なんて切れたって全然平気なわけだから、このアプローチはとってもエコでいいと思う。

 日本で年間に捨てられる残飯は2300万トンだそうで、世界的な食糧危機の中で、そもそもあまり意味のない期限がちょっと切れたくらいで、それほどの量を捨ててしまうこと自体が人類にとっての犯罪だと僕は思っている。
 だって、それだけの食料またはお金があれば、地球のどこかの何千万人という人が生き延びることができるのだ。

 ちなみに、世界の食糧援助総量が750万トンだそうです。
 日本の家庭から出る残飯だけでも金額に換算すると3.2兆円、日本全体では11兆円という数字もあります。(数字の根拠や妥当性について僕はまだ検証できていません)

 さなぎの食堂の定食はコンビニ弁当からつくった痕跡などまったく見えないみごとなもので、ことの性質上、仕入れが安定しない中で創意工夫して出しているその知恵には敬服する。

 僕も、あんまり収入がないクセに、近所で600-800円のランチを食べてしまうことがあり、身の丈から考えたら贅沢なので、運動がてら、自転車でさなぎ食堂までいってみてもいいかもしれないと思った。

 青森では、林檎がヒョウの被害を受けてキズモノがたくさんできてしまっているらしい。
 野菜や果物の外観というのも、あまり意味のないことで、外観の悪いものもちゃんと食べきろうという運動はもっと拡がって欲しいと思う。

2008年11月15日

クルム伊達公子

 随分前から、テニスプレーヤーとしてというより女性として伊達公子を好きでした。
 あんまりアイドルに熱を上げたこととかないのだけど、グラフとの試合のビデオ買ったりして。写真集ももっているし。
 ビデオってば、未開封のうちにいまやVHS再生装置がない。(笑)

 僕が女性の写真集を買ってもっているのは、加賀まりこと伊達公子だけです。写真入りの本としては三浦良枝(ロス疑惑の三浦元社長の奥さん)もあるけど。

 昨日は、インターネットで中村藍子との準決勝のスコアをリアルタイムでチェックしていた。
 第一セット第一ゲームブレークされて、そのあと第三ゲームの0-40から9ポイント連取でブレークバックしてスコアを伸ばしたり。
 数字だけしか見てないのにワクワク。
 結果、第一シードの中村に勝って、本日の決勝に進出。
 そのあと、一時間くらい間を空けてダブルスの準決勝にも出て、こちらは第一セットとられてから、フルセットで逆転勝ち。

 すごいよね。

 で、決勝を見るのに先だって、HDDのスペース確保を兼ねて、現役復帰する前に行われた、伊達・グラフ・ナブラチロワのドリームマッチの録画を見た。
 テニスの質がちがう。このときでもお金の取れるテニスをしている。
 やっぱり天才。
 グラフやナブラチロワは、もっと上を行く天才だったのだなあ。(ドリームマッチは伊達の勝ちだったけど)

 こういう人たちって本当に才能と努力の両方がすばらしいなあ。

 自分の人間としての凡庸さを思うと、嫉妬も感じるけど(天才と同じ土俵でふつうに比べてしまうのが僕の脳天気なところだが)でも、それ以上になんだかそういう人を見るってことは快感なのだな。

 せめて、同じくらいの努力はしないとだなあ。

 妻が外食なので、本日は、3食、作り置きのカレー。

2008年09月11日

苦しがる人々

 厚労省の調査で「生活が苦しい」と感じるのが過去最高の57%だったそうです。

 数字から見て、別に貧乏な人たちだけがそう感じているわけではないということがわかります。
 苦しいと感じるよりも楽だと感じる方が楽しいのに、それほど貧乏でもない人までもが、「苦しい」と感じて不幸せになってしまっている。

 大して不幸せでもないのに満足しない国民性って、困ったもんだなあと思います。

 この人たちは客観的に経済的な豊かさでは満足しないでどんなに経済力があっても「苦しい」と思ってしまう。
 経済の問題ではなく心の問題だってことです。

 日本みたいな豊かな国で、最下層にいるわけではない、平均よりも上の経済状態の人までもが「生活が苦しい」って絶対おかしいです。
 何のための経済? なんのための労働?
 
 焼鳥屋で飲めて、900円のラーメン食べられて、毎日風呂に入れて、昼飯をどこで食おうか迷うことができて、子供を塾に通わせられて、たまには奥さんが誘い合ってホテルで3000円のランチを食べていて、子供はDSのソフトを何本ももっていて……。

 そういう人が「生活が苦しい」って思ってしまうのって、おかしくないですか?
 それって誰のせいですか?
 どうやったらみんなシアワセになれるんですか?

2008年08月03日

オヤジバンド周辺の違和感

 朝まで仕事をしたかったので、ヨットは休みにした。

 で、夕方、スポーツクラブのプールへ。
 日曜の夕方は終了時間が19時だということもあって、プールも混雑。

 終わって帰ろうとすると、自転車の後輪がパンクしている。
 歩いて五分ほどの距離なので、押して帰りました。
(外を歩いて汗をかいたシャツをロッカーに下げてあとでまた着るのがいやなので、自転車でささっと行くようにしている)

 夜は、HDDレコーダーの中味を整理して空きをつくるために録画したまま見ていなかったものを、再生しながら居間で仕事。

 昨年のオヤジバンドコンテストの映像があった。第11回。
 次に仕事しながらモントルージャスフェスティバル2007。

 そこでふと気づいたこと。
 オヤジバンドが流行っているとかいわれているけど、よく考えたらへんだ。音楽と年齢って、もともとあまり関係ないんじゃないだろうか。
 ジャズフェスティバルでもロックフェスでも、ステージに上がっているプロのミュージシャンの年齢は四〇歳以上の方が多い。
 当たり前だよね。年齢が上がるほどテクニックも音楽性も高くなっていくことの方が多いんだから。
 プロのバリバリ現役がオヤジの方が多いわけだから、アマチュアだってオヤジが多いのはまったく特別なことじゃない。

 どうやら、どこかに「オヤジはロックをやらない」という事実無根の思い込みがあって、だから、そう思っている人が「オヤジなのにロックをやっている」と本人も周囲も言ったりするわけだ。
 それは単に、30年前にはオヤジたちにロック文化がなくて、若い世代しかロックを聴かなかったり演奏しなかったりしただけのことだと思う。

 でも、歳を取ったらロックを聴かなくなる、という特別な理由はなくて、ロックだけ聴くことはないかもしれないけど、ロックだって聴くだろう。
 逆に若い頃に演歌の文化に触れていない世代は歳を取っても演歌を聴くようにはあまりならないわけだ。
 ロック=若者 演歌=オヤジ という図式は1970年代にはそうだったかもしれないけど、それはそのときたまたまそうだっただけのこと。

 というわけで、オヤジバンドをやっている人にありがちな、どこか「自分は若い」というちょっと肩に力が入った感じにも違和感をもったのでした。

 好きな音楽を聴いたり演奏したりするのに、年齢なんてもともと関係ないのだ。

2008年07月18日

年寄りはマナーが悪いなあ

 朝6時半に起きて近くを散歩するつもりだったが、ものすごい雨。
 昨日の晴天が嘘のようだ。ほんとうに運がよかった。

 最後なので、大浴場へ朝風呂を楽しみにいく。

 浴場は年配の男性がいっぱい。「○×寿会連合会」という団体さんがバス4台ほどで泊まっているのだ。
 ところが、風呂場の洗い場に使い終わったカミソリが散乱している。試しに数えてみるとその数およそ50本近く。後の人のことを考えていないんだな。
 ここに限らず、年配の男性はどこでもとてもマナーが悪い。若者の方が礼儀正しいことが多い。どうしてなんだろう。

 60歳以上の男性は家庭で専業主婦の奥さんに面倒を見てもらっていて、旅行に行くときでも、パンツから着替えまで全部奥さんが用意したカバンをそのままもってくるようなライフスタイイルの人が多いせいではないかと思う。
 この年代の人は、自分で下着を選んで買ったことがないという人がとても多い。家のお風呂でも、きっと、掃除なんてしていなくて、どんなに散らかしてもそのあと奥さんがちゃんと掃除してくれている。
 会社ではそこそこちゃんとしていても、生活の場になると自分で自分の面倒を見られない人が結構いる。飲食店などで店員に向かって横柄な態度をとるのも特徴。
「あ、おねえさん、これ片付けて」
 なんて言い方をなじみの店でもなんでもないところで初対面の店員に向かってする。
「すみません、これ片付けてもらえませんか」
 くらいの言い方をするのが、初対面の対等な人間同士の言葉遣いだろうと思うのだけど。
 だいたいそんなところで偉そうな口の利き方をするのは、人間の器が小さく見えて格好悪いと思わないのかなあ。

 朝食を摂り、午前10時のチェックアウト時間少し前に出発。
 ワイパーを最高速にするほどの豪雨であった。

 道路はまたしてもすべて渋滞もなく順調で午後3時前には都内に到着。
 妻はそのまま車で仕事場に向かうので、僕は渋谷で降ろしてもらって電車で帰宅。

 我ら夫婦の夏休みはこれで終了。2日連続で一時も原稿を書かないなんてこと、すごく久しぶりだ。よく寝たし、いつも重たい目も雄大な景色でリフレッシュ。
 しかし、案の定、体重が1kg以上増えていた。

 まず、スポーツクラブへ行って筋トレ、夕食後は執筆に復帰。

2008年05月23日

増税しよう、しなきゃだめだろう

基礎年金に関するとても大雑把な話

 全額消費税増加でまかなうとして;

 受給者2500万人に月6万円を支給するのに必要な財源は 1兆5000億円

 それを一億人の消費支出でまかなうとして、
   消費税率6%のとき、一人当たり必要な消費支出は 月25万円

 つまり、消費支出が例えばひとり平均25万円というモデルだとすると、
 消費税を11%に上げないと全額税負担できないということだ。

 消費税でなくてもどこかに財源が必要であることにかわりはない。
 ひとり月15000円、年金掛け金としてはらうか消費税で払うか、他に税金をあげるか、という話。

 弱い立場の人を守ろうと思ったら、中間層以上の人は何らかの負担増が必要だ。
 中間層にいて、「もっと上から取れ」みたいな「自分は関係ない」かのような意識は問題からの逃避だと思う。
 役人や政治家の無駄遣いを減らすのにも時間がかかる。「まず無駄遣いをなくしてから増税」なんてことをいっていたら自分の傷が深くなるだけだ。
 無駄遣いをなくすのと増税は後先の問題じゃなくて、同時進行しかない。
 みんな、自分の国なんだぜ。あんたたちが選んだ政治家だぜ。あんたが雇っている役人だぜ。
 役人や政治家が悪いとしたら、僕もあんたも含む「国民」のせいなんだぜ。
 他人事みたいに人のせいにして、自分のせいじゃない、政治家が悪い、なんて、のんきなことをいわないでくれ。

 所得税の課税限度にすら届かないから、小説家になってからの近年の僕は年収的には完全に最下層にいるわけだけど、それでも増税しなきゃダメだろうと思っている。(昔、めちゃめちゃ働いた蓄えがあるから、生活に困ってはいないから弱者ではない)

 立食蕎麦を天ぷら蕎麦からタヌキ蕎麦にしてでも、さらには100円マックでガマンしてでも、みんなで税金もっと払わなきゃダメだろう。自分の国だよ。

 なんで、みんな他人事みたいなこと言って「増税反対」みたいなこと言えるんだ。
 暮らしていけている人たち、みんなで「暮らしていけない人たち」を守ってやれるようにしようよ。

 貧困層を直撃しない中間層以上への増税をしようじゃないか。
 自分が本当の弱者なのか貧困層なのか、フェアに考えよう。
「貧困層を守れ」という大義名分でほんとうは自分の負担を増やしたくないだけ何じゃないのか。
 胸に手を当てて考えてくれ。

 いまの自民党の増税案がいいっていっているわけじゃない。
 ちゃんとした増税を真面目に考えようよ。本当に弱い人がちゃんと生きていける日本を作ろうよ。

2007年11月27日

切なる願い 営業をやめないで!!

 マクドナルドの4店で、日付の改ざんがあったそうだ。

 マクドナルドにお願い!
 僕は、古いのでも、書き換えたのでも、一向にかまわないので、絶対に営業を自粛したりしないでください。
 マクドナルドがなくなると、すご~く、困ります。
 どうか貧しい小説家を助けると思って、安易に自粛したりしないで、営業を続けてください。
 お願いします。お願いします。お願いします。

 報道機関のみなさまにお願い!
 どうか僕の大切なマクドナルドをいじめないでください。
 かけだしの小説家の将来のために、マクドナルドを営業停止に追い込まないでください。
 お願いします。お願いします。お願いします。

 ついでに、赤福も、はやく営業再開してくれるようにお願いします。
 事件が起きて、あの味を思い出してしまって、もう、無性に食べたくてガマンできません。
 ちょっとぐらい古くてもかまわないし、いつまで食べるかは自分で決めますから、どうか僕に赤福餅を売ってください。
 お願いします。お願いします。お願いします。

 嘘をついちゃいけないよ。
 でも、消費期限や賞味期限なんて、本来、食べる人が決めること。
 だって、売る人は店頭までしか保証できない。
 買ってからどう保管してどう調理するか、食べる人の胃腸の状態はどうか、なんてことは売る人の知ったことではない。むりに安全にしようとすれば、まだ全然食べられるのに期限が終わるように書くしかないじゃないか。
 たとえば、玉子なんて、冬場なら消費期限(産み落とされてから14日間)がきれてから、実際は47日後でも生で食べられるらしい。

2007年10月18日

ルイ・ヴィトンの似合う人

 ルイ・ヴィトンもって歩いている人をあまりステキだと思ったことがないなあ。そういえば。

 普通に着るたいていの洋服には合わない。とりわけファッション性の高いデザインの洋服にはまったく合わないと思う。合うのはものすごくオーソドックスでどんよりとした服装だけでしょう。だからヴィトンのバッグをもって歩いている人のほとんどはコーディネートが崩れているように思う。
 モノグラムってユーザーが製造者の宣伝して歩くみたいでなんだか抵抗があるし。

 唯一、似合うシチュエーションって、キュンと音が凍り付くような冬の寒い朝、すごく分厚くて古いデザインのコートを着て、白い息を吐きながら、ヨーロッパの鉄道駅で、高いステップをまたいで列車に乗り込んでいくとき、ぐらいのような気がする。

2007年05月28日

定点観測「コットンマム」(その3)

 新しいカーナビが届いたのでテストランを兼ねてコットンマムへ。

 あいかわらず野菜は安くていいものがあるけれど、肉や魚は高くて買えないものばかり。前にも書いたけれど、正月やクリスマスには買うかもしれないが、ふつうの人間は100グラム400円の肉なんか食べない。
 近隣のマンションの価格帯と家族構成を考えても、100グラム400円の肉を日常的に買うはずがない。
 地域の掲示板を見ると、お洒落な品揃えを喜んでいる声が書き込まれていたりするけれど、新築マンションを買って入居前から入居直後の精神的昂揚が終わって、リアルライフの実需になれば、この品揃えのスーパーが成り立たないのは火を見るよりも明らかだ。

 あんまり売れないから、広く薄く並べていて、しかも営業時間の終わり近くには補充を躊躇しているから、遅く行くと商品がない。悪循環だ。

 開店当初からこのビジネスモデルではうまくいかないだろうと思っていたけれど、今日辺りには、いよいよかなり経営が苦しいようすが表に見えてきている。
 あちこちの棚に「空き」ができ、虫食い状態。
 空いた棚の分、いままでなかった安くて売れるものを品揃えとして入れていくのならいいけれど、どうやら単純に在庫を圧縮しているだけのようなのだ。在庫の回転の悪い輸入菓子などをたくさん並べているから、ほんとうに生活に必要で誰もが買いたくなるような商品を並べる場所がない。ジェリービーンズなんか並べたって誰も買わないでしょうが。POSデータ見ないで経営しているのかなあ。

 開店してから9ヶ月になろうとしているのに、問題に気づいていないのかもしれない。
 もしかして、客が少ない原因を、みなとみらい地区とを結ぶ横断道路(橋)の建設が予定より遅れているせいだと思っていて、道路ができるまでの辛抱で、橋ができればたくさん客が来るとおもっているとしたら、それは大間違いだと思う。
 いまの品揃えではどこからだって客は呼べない。高級な肉や輸入菓子は、このあたりではどこでも売っているのだ。わざわざコットンマムに買いに来ない。スーパーはまず「地域のイチバン」にならなくてはだめだ。そのためにはまず日常の食品をちゃんと並べておかなくては。オリーブオイルをたくさん並べる前に、近くのコットンハーバーに住んでいる人が東神奈川まで安い食材を買いに行かなくても済むようにしなくては。(せっかく近くに住んでいる人の需要を逃しているなんて)

 以上、経済小説 を書いている主夫、阿川大樹の提言でした。

 このブログのコットンハーバー関連のエントリーは ここ から。

2007年04月12日

赤坂議員宿舎問題

 新しく完成した衆議院議員宿舎に入り手がいないそうだ。
 3LDKの豪華な造りで周辺の類似物件に比べて家賃が破格に安い、と、批判的に報道されている。ネガティブキャンペーンの最中に入居するのを避けたいという議員の思惑もあるようだ。

 家賃が安いといったって、家族みんなでそこに住んで家計がらくになるわけでもない。要するに、住居というよりも仕事上必要な宿舎なわけだ。
 国会議員は忙しいときは寝る時間もないくらいだ。都心にいて通勤時間を極小にして10分でも15分でも睡眠時間をとるべきで、遠く離れた家賃の安いところから時間をかけて通って月に何十万かを節約するのと、体力を温存するのを比較したら、国を預かるものとしては、体力を温存するべきだというのは当たり前のことじゃないか。
 一箇所に集まっていた方が警備の効率もよく、警備コストを下げることもできる。
 3LDKもいらないだろう、というのはその通りだと思う。
 しかし、そういうことは枝葉末節の問題で、仕事上の必要性に応じて用意されている施設は有効活用していかに成果を出すか、というのが問題なわけだ。
 それを一般人の住宅と同じレベルで論じて贅沢だとかなんだとか、ひがみっぽいことを報道するから、こういうことになる。

 議員も議員で、「この施設を十二分に活用して最大限の成果を出します。見ていてください」と胸を張って入ればいいだけの話。

 また、くだらないメディアのせいで税金が無駄になる。
 やだなあ、こういう足の引っ張り合いのような精神風土。

2007年03月14日

クジラを救うという発想

 クジラが港に迷い込み、それを外へ出そうとしていた人が亡くなった。

 クジラが狭いところに迷い込むのは、頻繁にあるわけではないけれど、クジラの習性の一部で、別に異常ではない。
 それを人間が外へ出す必要はないと思う。
 中にいられちゃ迷惑だというのが本音だ、というならわかるけれど、「救う」という発想が本当なら、それは人間の奢りだと思う。

 人間が見ているところでもそうでないところでも、野性の生物は産まれ、いろいろな理由で死んでいく。それが自然というもので、そこに人間が介入するのはおかしい。たまたま目に見えている自然を、人間が自分の思うとおりにしようとする。その発想が好きではありません。あえていうなら、それは自然破壊だと思う。
 クジラが死なない自然なんて、この地球にはない。
 なぜ、クジラの死を自然の一部として見ていられないのか。

 クジラは多くの小さな魚類の天敵だから、クジラが死ねば代わりにエサになる生物が救われる。クジラが死ぬのはかわいそうで、クジラが生き延びることでエサとして食べられるイワシはかわいそうではない、というのは、人間の勝手な感情であって、クジラを救うことは自然を救うことでもなんでもない。
 自然というのは、だれかが生きれば代わりにだれかが死んでいく、そういうものではないですか。

 亡くなった方はお気の毒だけれど、彼のやろうとしていたことに僕は賛成できない。やるべきでないことをして命を落としたから、よけいに痛ましい。
 それにしてもライフジャケットをしていなかったなんて、自然をなめている。自然は、胡散臭いヒューマニズムの場所ではなく、野性の場だ。海も、クジラも。体長15mのマッコウクジラに長さ数mの小舟で近づくことの危険を自分で判断できず、こともあろうに縄をかけて引っ張ろうとした。そこでクジラが暴れないと判断することに人間の異常さを感じる。
 ヒューマニズムが通用するのは人間の世界だけだということを、彼は知らなかったのだろうか。

2007年01月06日

戦争と人生

 叔父の葬式、午前9時過ぎに家を出て午後8時帰宅の一日仕事。

 叔父の棺には、予科練のころの集合写真があった。
 叔父には戦争の話を聞かせてもらいたかったが、彼が予科練だったことで、僕の心の準備ができなかった。16歳かそこらで国のために命をかけようと思い立った人と向き合うには、こちらにもそれを受け止める覚悟が必要だと感じていた。
 話を聞ける自分になろうとわざわざ江田島の海軍兵学校へ行ってみた。だが、そこでみたものは、自分の青春と当時との差であり、かえって道は遠のいてしまったのでした。
「おじさん、教えてくれ」と虚心坦懐に何も知らずに聞きに行けばよかったのかもしれない。

 叔父が予科練にいたころは、日本にはもうたくさんの飛行機を作る国力も、飛行士を養成する時間もなくなっていた。叔父は飛行機ではなく、水上特攻艇「震洋」というので訓練していたらしい。人間魚雷回天が有名だけれど、僕が江田島で模型で見た震洋はベニヤ板でつくった、子供だましみたいなチンケな小舟だった。
 あれでは軍艦の曳き波でも簡単に転覆してしまうだろう。
 特攻のとき、突っ込むこともできずに波に煽られて転覆して死ぬ姿が想像できてしまう。それだけで泣けてくる。
 乗ってみれば、彼らも訓練中に自分の最後をそのように想像したにちがいない。国のために死をいとわないという志を、きちんと受け止める国力すら日本にはなく、死に場所としてあまりにみじめなベニヤの船と、「特攻」にすら性能が不十分な船で、多くは「犬死に」が待っていたばかりだった。

 棺の中の予科練当時の集合写真。
 そのセピア色の集合写真を見て、このうち何人が生き残ったのだろうという思いが浮かび、6人の孫まで儲けたことを思えば、戦争で死なずに今年の正月二日まで生きていて本当によかったと思って涙が出た。
 叔父が死んだことよりも、彼がその日まで生きたことを喜ぶ気持ちがした。

 原稿は書けずに、疲れて就寝。

2006年11月18日

定点観測:またコットンマム

 一ヶ月半ぶりにスーパー「コットンマム」へ行った。
 前回は10月1日
 ちかくのコットンハーバータワーズに入居が進んだのか、土曜の夕方、店内にはけっこう人がいる。
 屋上の駐車場にはそれほど車が入っていない。
 つまり、コットンハーバータワーズ以外からの買い物客はあまり多くないようだ。

 車でなら遠くない商圏、ポートサイド地区やみなとみらい地区では、地元のプラザ栄光生鮮館ポートサイド店、みなとみらい店が、それぞれ対抗策を打ち出しているのだ。
 みなとみらい店ではメール会員にタイムセールとして、価格100円未満の目玉商品を毎日のように告知しているし、ポートサイド店では精肉部を担当している Motomachi Union がぴったりコットンマムに照準を合わせて、土日に牛肉全品50%引、を毎週実施している。
 生鮮食料品を買うスーパーというのは、目玉商品で顧客を呼べば、他の商品もそこで間に合わせてしまうので、土日に牛肉を買いだめさせてしまえば、ポートサイド住民は平日にコットンマムへ行く機会もあまりなくなる。
 みなとみらい、ポートサイドの両地区は夫婦共働きか、リタイヤ後の高齢層が住んでいる。共働き層は週末にまとめ買いをするので、土日に客を押さえれば平日にはあまり買い物をしないので、競争相手のシェア獲得をブロックできる。
 土曜夕方にも屋上駐車場にあまり車が入っていないのは、そのような近隣スーパーの作戦がかなり成功していることをうかがわせる。
 高齢層はもともと車で買い物には出ないので、コットンマムの高級な品揃えはむしろ、横浜駅のデパ地下、成城石井、などを利用することになるだろう。(もともとコットンマムの商圏ではない)

 10月1日にも指摘したが、コットンハーバータワーズの住民層とコットンマム品揃えの高級食材とはミスマッチがあるので、今後も厳しいビジネスが続きそうだ。さらにみなとみらいの中心部にスーパーができることも決まっている。

(訂正:2007年7月現在みなとみらいに新しいスーパーができる話はないようだ)

 あいかわらず野菜は安くて鮮度がいい。
 やげん堀など七味唐辛子の種類が増えていた。(前からあって僕が見落としていたのか?)
 鮮魚・精肉は「物はいいが価格も高い」(青果のように割安感がない)ので、一部の廉価品以外はあまり売れている形跡がない。
 ただ、買わないまでも豊富な品揃えを見ながら、実際は定番や廉価商品を買う、というのは「豊かな買い物」なので、高級品を見せながらきちんと廉価商品を用意してくれさえすればば、プラザ栄光生鮮館などよりもずっと気持ちのいい買い物ができていいと思う。
(売れ筋だけでなく売れない品揃えを豊富にすることで、実際は売れ筋しか買わないけどより多くの客を呼ぶのが、かつての「東急ハンズ」のビジネスモデル)

 以上、経済小説 を書いている主夫、阿川大樹の提言でした。

 このブログのコットンハーバー関連のエントリーは ここ から。

「フラ印ポテトチップス」があるのがうれしかったのでを買ってみた。
 だけどまるでふつうのポテトチップス。
 東京スナックへのライセンス商品ということだが、どうやら商標だけのライセンスらしく、ギトギトカリカリで食べ応えのあるアメリカで売られているあの「フラ印」とは似ても似つかぬ味だった。ならばなんでわざわざフラ印なんてつけるのさ。大いにがっかり。(コットンマムの責任ではないけど)
 やっぱりいまのところ「堅あげポテトチップス」がいちばんだ。(笑)

2006年11月02日

また、履修不足問題を   「みんなやってる」の嘘 

履修不足のある学校名のリストです。
http://www20.atwiki.jp/hisshuu/pages/4.html

 まだ隠している学校もあるのでしょうか。
 あとで発覚したら、それこそ補習が間に合わなくて卒業できなくなってしまうから、隠すのはリスクが高すぎるはずですが。

 でも、(自称?)高校生のこんなブログもあります。

さて、
 現在のところ、全国の高校の約1割。あえていうとわずか1割です。
 少なくとも、「そんなことはどこの高校でもみんなやっている」という言説は事実ではありません。のこり9割の大多数の学校はちゃんとやっている。
 隠している学校があって、倍の二割としても、それでも「どこでもみんなやっている」というのは乱暴すぎて無理。

(追記:2006/11/11)
 「文科省は全国の大学生の16%が高校で必修の世界史を履修していないという調査結果を4年前に手にしながらアクションを起こしていなかった」との報道があり、つまり、結果として大学生の中で、世界史を履修していないのは16%程度であるということが別の角度からわかりました。
 高校生の大学進学率はここしばらく50%程度なので、進学校だけを対象に考えても、「履修逃れなんてみんながやっている」ということにはやはりならないことがわかります。
(追記:おわり)
「みんなやっている」というのは自分を正当化する貧しいギミックであって、事実を曲げて自分の罪悪感をごまかしているだけのことです。

 そもそも行動規範に、他人がどうしているか、は関係ないはず。

 世界中がなんていおうと、「僕は君が好きだ」と言えばいい。

 日本中がインチキしていても、自分はしない。受験制度に問題があるからといってインチキはしない。ゆとり教育に問題があるからといってインチキはしない。
 そういえない、そうしろと言わない教育って、いったい何?

 自分以外の何かに問題があったら、それを理由に自分はどんなズルをしてもいい、なんて、そんな教育はないだろう。 (それはそれ、これはこれ)
 競争で不利なら、制度に矛盾があるなら、「倍の努力をして克服しよう」というのが教育じゃないか。
 少なくともできるだけ負担を少なくすることではないはず。

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2006年10月26日

履修科目不足問題 がんばれ高校生!

 必須科目である世界史(平成6年からそうなったそうです)などの科目を受験に集中するために履修させていなかった高校がたくさんあることがわかってきて、3年生の卒業資格がなくなるかもしれないと、騒ぎがどんどん大きくなっています。
 災害の犠牲者の如く、新しい報道があるたびにその数が増えているので、実数が把握できないけれど。

 ルールがある以上、世界史をやった上で大学に入る、というのが当たり前なのに、なんで楽しようとするんでしょうね。
 教育の場で楽してどうするんだろう。
 苦労していろいろ学ぶ場で楽したら自分が損するわけです。
 そんなに目先の楽をしたいなら大学行かなければもっと楽です。
 でも、大学自体が目的ではなく、将来を豊かにするために大学へ行くのだから、豊かになれない勉強の仕方で大学へ行くのはもったいない。

 世界史を勉強しなくても大学に入ればこっちのもの、というほど人生も社会も甘くありません。世界史を履修して大学に入った人と、そうでない人は、すでに入った時点で差があるわけだし、放っておけば、その差は時間とともにもっと開いていきます。

 長期的みて世界史を勉強しておいた方が明らかに得です。(他の科目でもそうですが)

 知識という「タネ」があると外部の刺激から「興味」が生まれます。興味をもつと自分からどんどん情報を吸収しようとするので、結果として、少しの知識があれば、なにかのきっかけで百倍にも千倍にもなる。増殖するんですね。
 ところがタネがないとピンと来ないから、話を聞いてもテレビを見ても「つまんねえ」でおしまい。
 高校程度の知識というのはそういうタネの役割をするわけで、もともと世界史でならった年号が役に立つわけじゃない。でも、ちゃんとタネとして役に立つ。でも、「つまんねえ」で終わってしまう人は、そう口にしたその瞬間に、受験に関係ない高校の勉強が「役に立つんだということに気づくチャンス」すら失ってしまう。
 タネがないところに雨が降っても芽は出ない。雨はいつ降るかわからないから、チャンスを逃さないためにはタネを蒔いておく必要がある。高校で学習する知識というのはそういうものです。
 高校の知識が長い人生の間の知識や経験の格差を産むことになります。
(だって、そのために高校へ行くのであって、大学へ行くためだけに高校があるわけじゃない)

 そもそもどんないい大学を出たところで、それまでに学んだことよりもその後に学ぶことの方が何十倍何百倍も多いわけです。だから大学に入るかどうか、あるいは、「どの大学」に入るかが問題なのではなくて、大学を出てから知識を自分で増殖させる能力があるかどうかが将来を決めるといってもいい。
 同じ大学を出ても、知識を増やす能力が低い人は実りのある人生を送るのに圧倒的に不利になる。ランクが低いと思われている大学の卒業生でも知識増殖能力が身についていれば豊かな人生を送る上でとても有利になります。
 みすみす不利な選択をするのが「世界史を履修しないで受験科目だけを勉強する」ということなのに、それを学校がルールを無視してまでやってしまうなんて。

 高校で学ばなくてもあとで必要になればいつでも自分で学ぶことはできます。必要だと自分で気づく限りは。
 気づくことができれば大丈夫。問題はありません。高校で学んだところで、そのなかの知識自体はそれだけで役に立つわけではないから、結局、あとで自分で学ぶ必要があることは同じです。
 ところが高校で学ぶような基礎的な知識がないために「自分に必要だ」ということすら気づかない危険が高くなってしまう。その結果、ある人は必要なことを学び、ある人は必要なのに必要だと気づくことなく学ばない、ということになる。
 こうして格差は拡がっていきます。
 学校が受験科目以外を学習させないということは、そういう潜在的負け組国民を増やしていることになる。生徒たちがとてもかわいそうです。
 
 先日まもなく出るという東大に関するある本の著者に会いました。
 彼が東大生について調査をした結果、東大生は、中学の時も高校の時も本をたくさん読んでいるというのです。
 本というのは受験参考書のことではなく、小説や新書やノンフィクションやエッセイや解説書や、いわゆる本屋にならんでいる普通の本のことです。当然、それらの本を読んでも入試問題が解けるようになるわけではありません。

 世間で「受験の勝者」のように思われている東大生ですが、彼らは受験に役立たない(と思われている)ことをたくさんしているということがデータとしてわかったというわけです。
 一部の会社や官僚組織でもないかぎり、東大を出ただけで出世するなんてことは事実に反した単なる都市伝説であって、現実の社会はそんなに甘くはありません。むしろいい大学(と世間で思われている大学)を出た人が沢山いる一流企業ほど長い目でみて、ちゃんと実力主義になっています。

 実力というのは結局のところ、「自分で知識や経験を増やすことのできる力」や「人が気づかないことに気づく力」「だれもやったことのないことに挑戦できる力」のことで、会社員であろうと、ラーメン店のオーナーであろうと、教えられたことだけしかできない人、というのは社会で生き延びていくのがむずかしい。

 少なくとも教えてもらった知識を自分で増やせる人でなくてはならない。
 知識を増やすにはタネが必要です。そのタネはあとで自分で勉強するより、学校で習う方がずっと楽だし、知っていることが多ければ、人生の楽しみも多くなります。たとえ授業中寝ていても耳に必ず残っている。そのことに大きな価値があるわけです。居眠りする授業すらないなんて、それはあまりにひどいことです。

 受験科目ではなくても、勉強しておかないと絶対に損です。
 高校世界史の知識があるだけで、テレビだって映画だってドラクエだって海外旅行だって、何倍も面白くなります。ニュース番組がバラエティ以上に面白く感じられたりします。
 生活の中で我慢しながら人の話を聞く時間が減って、わくわくする時間が増えます。受験に関係ないけど高校のカリキュラムに入っているような知識は、一生のあいだ、人生を百倍楽しむための魔法の薬みたいなものです。

 3月31日までに履修すればいいので、受験が終わってからでも、50分x70回(6時間の時間割で2週間)の時間は取れます
 大丈夫。
 騒ぎに巻き込まれてしまった高校生のみんな、がんばって勉強してくれ!

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2006年10月22日

化粧をしない女

 いまの日本で、だれにでも裸を見せることは推奨されていない。適宜、肌を隠すことが求められている。電車の中で化粧をする人に新聞投書欄で非難が寄せられるのも、たぶん「見せてはいけないもの」を露出させているという考え方が背景にあるからだろう。
 互いの裸を見ることは「特権的関係」にあるものだけが許される。誰にでも裸を見せるのは「おかしなひと」のやることだ、とみなされている。
 化粧をしない素顔は裸と同じようでもあり、違うようでもある。
 人の知らない「あなただけに見せる顔」や「自分だけに見せる顔」には「関係」が存在する。だれにでも見せているわけではない、ということが関係を産み出すわけだ。
 関係を確認する喜び、とりわけ男女にはそんなのがあるように思う。恋愛というのは関係を確認し続けることのようでもある。
 素顔はそのぎりぎりの境目だ。
 素顔の奥にも「あなたにしか見せない素顔」ももちろんある。けれど、だれにでも素顔を見せている、という言葉がちょっと面白くない。
 化粧をしないで素顔ですごす女性を恋人にもつと、ヌードダンサーを恋人にもったような複雑感情が生まれるように思う。
 少なくとも「裸を見る」という特権的行為が一般にも公開されていると、関係を確かめるために「裸以上」が必要になる。
 なるほど。そうか。恋愛というのは互いだけが知っている秘密の共有なのだな。
 どんなに境目の位置をずらしても、つねに「その先」はあるから、実はどっちでもいいような気もするんだけどね。逆にいえば、人はその先その先と追い求めることに疲れることもあり、たとえば、さっっさと裸になって開き直ったところから安らぎが産まれるということもある。
 さあ、これ以上先はないわよ、つきつめないで、いいかげんくつろぎなさい。
 裸や素肌に、そんなメッセージがあるのかもしれない。人間っておもしろい。

 とまあ、最近、化粧について続けていくつかネット上の書き込みを読んで感じたことを書いてみました。

化粧する女(2)

 化粧をする女と化粧をしない女のどちらがいいか、という永遠のテーマ(笑)がある。
 基本的に僕は努力と創造をリスペクトする。だから化粧をする人が好きだ。
 いうまでもなく二十一世紀、洋服は寒さを凌ぐ手段であるだけでなく、自分を表現する手段だ。同じように化粧は欠点を隠すものではなく、自分を表現する手段だと思う。化粧は新しい創造だと思う。
 あらゆる機会に自分を表現したい。そのスタンスがいいのだ。
 今日は素顔の自分を表現したい、と思えば、素顔に見える化粧をすることで、ほんとうの素顔よりも素顔らしい素顔ができるはず。
 化粧とはアートだから。

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 見かけに関して素顔のほうがきれいに見えるとしたら、それは化粧の技術が下手なだけ。
 上手な化粧なら、ちゃんと「きれいなスッピン」に見せることもできます。
 見かけではなく、肌の健康上の問題や、人間の心の問題はまた別だけど。
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化粧する女(1)

 電車の中で化粧をする女を非難する人がいる。たしなみに欠けるということなのだろう。
 ちゃんと家で化粧して出てくる人生の方がゆとりがあることはたしかだ。
 しかし、人生、のっぴきならない。
 睡眠時間三時間なら、五分でも余計に眠る方が化粧をするよりも妥当な時間配分だろう。
 では、五分余計に眠った結果、化粧をしないで家を出てきたとしよう。
 彼女は、身だしなみとして、化粧をするべきだと思っている。会社に着いたらすぐ仕事だ。だったら、電車の中で化粧をするか、一日中化粧をしないか、どちらかしかない。
 自分のあるべき姿にできるだけ近づこうとして、人は最善の努力をするべきだ。家で化粧ができなかったら、電車の中でするのは次善の策である。
 どこがいけないっていうんだ。
 人の努力を否定して足を引っ張ることはないじゃないか。

 自分の倫理観や価値観に合致しない人がいるからといって、その人の生き方をとやかくいうもんじゃない。(ていう意見も僕の価値観でとやかくいっているんだけどさ)

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2006年10月01日

定点観測:コットンマムその後

 場所柄をわきまえず高級志向に走りすぎていることで経営の先行きを心配していた(笑)コットンマムに先週再び行ってみた。
 野菜は以前から安かったのだけれど、オープン1週間ほどしても維持している。なかなか鮮度がよくて、このまま続いてくれればありがたい。
 魚は品揃えが落ち着いて高級から「ふつう」に近づいた。そのかわり、すごく美味しそうなにぎり寿司のパックがあったのが、そんじょそこらのスーパーの寿司になった。ちょっと残念だけど、まあ、スーパーのお寿司としてはむしろこうあるべきでしょう。美味しいものを食べたければ寿司屋にいけばいいのだから。
 肉類もちゃんと下は100g98円クラスのものから並べられるようになった。こうでなければ毎日の暮らしを担うスーパーにはならない。
 そもそもどんな素材でもそれぞれの利用方法があり、美味しい料理を作ることはできる。それが料理文化であり、暮らしの文化レベルというものなのだから、経済的に余裕があるからといって、高級食材ばかり使うとしたら、あまりにも知的レベルがお粗末というもの。(マズイ食材を美味しくする工夫こそがフランス料理をここまで磨き上げたんだし)美味しいものを知っていること、高い食材を買う経済力があること、というのが、毎日高級食材で美食をすることにダイレクトに結びつくわけではない。
(その上、この立地の近くのマンションはそもそも「高級マンション」ではない)

「いい店」というのは高級なものを売る店のことではなく、顧客の要求を高いレベルで満たす店のこと。フランス料理の店の方が立ち食い蕎麦屋より「いい店」であるとは限らない。だめなフレンチレストランもあれば、いい立ち食い蕎麦屋もある。ふつうに「高くて美味しい」のはあたりまえで別に偉くはない。安くてまずい店と店の価値は同じ。高いなら値段以上に「すごくおいしい」ときにやっと「いい店」になるわけだ。
 ときどき勘違いして高級なものを並べた店が「いい店」だと思ってお店を始める人がいる。住宅街にあるシロウトマダムが開く趣味の店(うちの近所にもけっこうあります)がその代表だけど、そういうお店はオーナーの自己満足(趣味)だからある意味、赤字でもいいわけだ。
 コットンマムがそのような店であれば短命に終わってしまうことは目に見えていたので、けっこう心配していた。開店1週間でそれなりに軌道修正が加わっていたのでちょっと安心。ひきつづき今後を見守りたい。

 さて、残るは乾物類。
 全体に有名なブランドを並べた、という印象。つまり、バイヤーが自分の舌で選んだ品揃えじゃないような感じ。よその高級食材点をみてマネをしているだけのようだ。
 紅茶なら「フォーション」「トワイニング」とデパートみたいなラインナップ。日常的に紅茶を飲む人たちに評価の高い日東のリーフティ・オリジナルブレンドなんかは置いてない。日東のこのシリーズはトワイニングよりも確実に美味しくて価格は半分くらい。
 さんざん「こだわりの品揃え」風なんだけど七味唐辛子はS&Bだけしかないとか。
 象徴的なのがSPAM。これはマズイけどアメリカ人は子供の頃から覚えている味なので港区の輸入食品店には必ずある。アメリカ人だっておいしいと思っていないからこそ、迷惑メールのことをSPAMというようになったりしているくらいで、アメリカの味だけど高級でもなんでもないわけで、外国人客が多いわけでもない立地でこのSPAMが妙に売り場で目立つというのも地に足が着いてない証拠。(まあ沖縄料理では何故か「ポーク」と呼ばれる定番の材料なのですけれどね)

 せっかく近くにできた店なので、いい品揃えで長続きしてください。コットンマム殿。
 (店長さんがここを読む可能性をいちおう想定しています)

 以上、経済小説 を書いている主夫、阿川大樹の提言でした。

 このブログのコットンハーバー関連のエントリーは ここ から。

 2006年11月18日の定点観測はこちら

2006年09月20日

報道こそ遵法精神をもて

 いくつかのメディアが高専での殺人事件で自殺した容疑者の実名報道をした。
 そもそも、実名であるかどうかで、報道の受け手から見た社会性、問題意識がかわるわけではない。かわるとすれば、容疑者に制裁的効果があるということだけ。
 つまり、実名報道は、のぞき趣味とリンチの欲求を満たすだけで、社会になんのプラスももたらさない。

 実名報道を選択したメディアは、少年法のあり方に疑問を呈している。
 つまり、自分が賛成できない法体系は、自身のロジックで無視してもよいのだ、という考え方である。
 ここにあるのは、法軽視、本音による建前の破壊だ。

 そうやって、建前を本音でなし崩しにする人によっていやな世の中ができる。
 本音はどうであれ、みんなが建前を守れば、もっとずっと温かい世の中になる。

 酔っぱらい運転にしても、「かたいこというなよ」という本音を平然と実行してしまっているからなくならない。どんなときでも法律を守ろう、とみんなが思えば、悲しい事故は減る。法律よりもそのときの個人的事情を優先し、法律を無視することが、事故を生む。建前を杓子定規に守れば、飲酒運転による事故は確実に減るのだ。
 法律は、本来、人に優しく、粗暴な本音から人を守ってくれるものだ。

 高専で殺人事件が起きたのも、 (もし彼が犯人であるとすれば)容疑者は、彼固有の事情による本音が(人を殺してはいけないという)建前をないがしろにした結果だ。
 殺人を動機で正当化することはできない。
 たとえ相手が殺してしまいたいほどヒドイ奴でも殺してはいけないのだ。
 生きていれば人を憎むことも殺したくなることもあるかもしれないが、それでもなお、どんなときでも、人を殺してはいけない。
 彼は人を殺してはいけない、という法律という形になった建前をあくまでも守らなくてはならなかった。

 もし、実名報道のメディアが殺人を憎むなら、少年法も大切にするべきだ。
 少年法がよくないと思うなら、それを改正するような報道をすべきなのであって、自分で少年法を軽んじてはいけない。法を軽んじるものに、法を犯すものを糾弾する資格はない。
 改正する努力をしないで、なし崩しに本音で報道してしまうのは、報道機関がとるべき行動ではない。
 少年法はオカシイから実名報道をできるように改正すべきだ、と報道するのが報道機関の本当の役割だ。

 報道機関ですら、こうして法律をないがしろにするから、意に沿わない法律なんて時と場合によっては守らなくてもいいのだ、という風潮がはびこってしまうのではないかと思う。

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 ちなみに、阿川の立場は、実名報道は「少年案件かどうかによらず、すべての犯罪報道で加害者も被害者も双方とも実名は不要」です。

 そういえば、被害者が「明るいよい人」だという報道もよくあるのだけれど、「暗くてイヤなヤツ」であっても殺されてはいけないのだ。
 被害者について「いかによい人だったか」という報道するのもどうかと思う。
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2006年06月07日

村上世彰記者会見79分

 動画配信サイト GYAO で、村上世彰さんの記者会見がノーカットで見られます。
  http://www.gyao.jp/news/

 これを見て、僕は「村上世彰が口先だけきれいごとをいう守銭奴である」という結論には辿り着かないのですけれど。

 と同時に、いかにテレビや新聞がこの79分の中から、自分のシナリオに沿ったシーンを選び取り組み合わせているか、ということも改めて強く感じます。

村上世彰という人と世間の人

 僕は村上世彰という人をとてもピュアな人だと受け止めています。
 完全に言行一致していると思うから信用できる人というカテゴリー。

 彼は随分前に十分お金を手に入れているし、お金を増やすのは自分のためではなくて、出資者のためでもあり、それから自分の影響力を強めることで(つまりたくさん株を買っていろいろな会社に自分の意見を言えるようになることで)たしかに彼の理想の実現を目指していたと思うのです。
 そんな方法をとる人がいままでいなかったから、理解されないだけなんだと思います。

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2006年05月27日

中学生に「親学」を教えよう

 どうしたら親になれるんだ。

 いえ、セックスをすれば結果として、だれでも親になっちゃうわけですが、問題は「親はどうあるべきか」をいつどうやって学ぶのか、ということです。

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2006年04月07日

長寿世界一と喫煙の関係

 WHOによると男子79歳、女性86歳、日本がまたしても男女とも長寿世界一。
 一方で、先進国で喫煙率も一番高い。
 http://www.nosmoking.jp/introduction/base.html

 たしかに煙草は健康に悪いようだけれど、吸ってもそれほど寿命が縮むわけではないってことが、科学的に証明されているってわけですね。
(サンプル数の少ないあらゆる医学的論文よりも、「全数調査」の寿命の方が科学的に信頼できます)

「煙いから隣で吸わないでくれ」というのは認めます。
 が、「健康に悪いから」っていわれると、じゃあどうしてこんなに煙草吸っているのに長生きなんだ、と反発したくなります。「副流煙で吸わない人の命まで縮めている」というのは上記のように事実に反しているからです。だれに聞いたのか知りませんが、ウソをいっちゃいけません。データが示すように命はちっとも縮んでいない。

 僕、根本的に理科系なので、エセ科学を「科学的」であるかのようにいわれると、ちょっと反発を感じます。

 とはいえ、健康にあまり害ははないとしても、煙を吸いたくない人に迷惑をかけないのは当然なので、もっと分煙は進めるべきだと思います。歩き煙草、ポイ捨て、論外です。
 僕は吸わない日の方が多いライトな喫煙者ですが、他人の煙はイヤなので、通常、禁煙席に座ります。他人の煙が嫌な人の気持ちもすごくわかります。ポイ捨ても歩き煙草もしません。しかし、寿命が縮まるというのはあくまで事実に反していると思う。